おそらく、日本書紀が編纂された1300年前からあっただろう邪馬台国論争。この邪馬台国論争が、現在の日本の史観にとって、どのような意味があるのか?考えてみる。
邪馬台国論争の最大の焦点は、邪馬台国がどこにあったのか?ということであり、それは大きく分けて、畿内説と九州説に分けられる。これは単に、邪馬台国がどこにあったのか?という問題だけではなくて、日本の国家統合過程がどうだったのか?ということにも影響してくる。
一般的に、九州説ならば、魏志に出てくる3世紀中頃の段階では日本はまだ統一過程の前であり、少なくとも九州権力と畿内権力は完全に並立していたことになり、畿内説ならば、遅くとも、倭国大乱が収拾した2世紀には既に緩やかながらも日本全国規模の統一的な国家が誕生していた可能性が強い。
邪馬台国所在地
- 九州説=3世紀の九州王朝と畿内王朝の並立説
- 畿内説=2世紀に日本全国規模政権誕生説
そして、そのようなことを考えた場合、九州説は畿内説より不利なのだ。なぜなら、九州説VS畿内説の戦いは、厳密には、九州王朝説VS日本全国王朝説の対立だからだ。
たとえば、中国史書などに書かれている内容に、明らかに九州のことだろうという地形の話も出てくる。阿蘇山の話とかそうだ。しかし、そのことを理由に九州説有利といえるかというと、そうはならない。何故なら、畿内説というのは、厳密には、邪馬台国=日本全国王朝説でもあり、日本全国王朝説ともいえる畿内説の立場に立てば、九州の地形が出てきたとしても、それも畿内王権の勢力下にある九州の話だとも解釈できるからである。
邪馬台国論争のもつ意味として避けられないのは、第二次世界大戦後の日本のイデオロギー史観の対立が影響していることである。それは、皇国史観VS反皇国史観(マルクス主義史観など)をあらわす。
アマチュア歴史愛好家の安本美典氏は、皇国史観、戦後の日本の記紀の権威の復活から、邪馬台国九州説を唱えている。彼は、卑弥呼を日本神話の天照大神と推定し、卑弥呼の死後、九州から畿内へ東征したと言っている。そして、それを否定する考古学の権威に対して、反皇国史観だと批判している。
しかし、それは本当なのだろうか? 確かに、90%以上が邪馬台国畿内説の立場に立っている考古学会では、基本的に、考古学>>>文献史学の立場である。しかし、実際は、畿内説を唱えているのであろう彼らの主張の主軸の意見だと、邪馬台国は巻向遺跡がそうだということになり、むしろ、日本の記紀にある百襲媛命と卑弥呼が同一人物の可能性が高くなり、日本の記紀の権威が復活する可能性がある。また、邪馬台国畿内説のほうが、日本の全国統一の時期が早かったことになり、見方によれば、畿内説のほうが皇国史観により合致しているとも言えるのだ。
日本の記紀・文献に書いてあることよりも遥かに考古学の研究を重視する考古学会だが、彼らの90%以上が支持する畿内説のほうが、結果的に日本の記紀の文献としての価値を高める結果になるかもしれない。