邪馬台国九州説の有力推定地として、その名をとどろかす吉野ヶ里遺跡。吉野ヶ里遺跡は1986年からの発掘調査によって発見された、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる吉野ヶ里丘陵に広がる、弥生時代の大規模な環濠集落遺跡である。
アマチュアの歴史愛好家(史学や考古学の専門外の人たちが趣味で歴史を研究する人たち)が書くような本の多くが、吉野ヶ里は西暦300年頃まで存続していたと書いてある。こういうふうなのを見ると、「吉野ヶ里遺跡は邪馬台国の時代の西暦3世紀中頃も繁栄していた」、「纏向遺跡が西暦180年頃から西暦340年頃だからこの二つの遺跡は東西で共に同じ時代に繁栄していた」という事になる。
しかし、その実態を詳しく分析してみると、吉野ヶ里は西暦300年頃まで存続していたといっても、後期の吉野ヶ里は解体・分裂の傾向にあり、途中、北内郭の大型建物といったものはあるものの、集落規模は縮小の一途をたどり、その間、首長墓に比せられるような墓もなく、内・外の環濠は庄内式併行期の土器をふくむ土で埋まり、この時期に中期以来営まれつづけた環濠集落は廃絶している。
一方、纏向遺跡が繁栄を始めるのが西暦2世紀後半で、纏向遺跡と吉野ヶ里遺跡は共存していないことが分かる。
しかも、現在の考古学のデータでは、卑弥呼が活躍した西暦3世紀の高地性集落の分布は九州から大和ではなく、大和から東や北の方角に変わるために、卑弥呼以後の九州から畿内への東遷説は説明しにくい状態にある。逆に、日本書紀に記載されている崇神天皇時代の四道将軍の大和から四方への派遣とは照応し、このことが、考古学者が邪馬台国大和説に傾く大きな理由になっている。
参照ページ:日本の国家統一と高地性集落の分布変遷
そういうわけで、邪馬台国九州説論者の期待の星・吉野ヶ里遺跡が、邪馬台国の集落だったという可能性は低いように思う。
では、吉野ヶ里遺跡が、古代の日本にとって何の価値もない集落なのだろうか?そうは思わない。少なくとも、吉野ヶ里遺跡は九州を代表する環濠集落ですし、西暦2世紀初頭までは、まだまだ繁栄していただろうということは確かだ。
では、この吉野ヶ里遺跡は、何か文献にその痕跡が残っているような遺跡なのだろうか?
吉野ヶ里遺跡がある筑後平野は、九州を代表する広大な平野部であり、この辺りは、古代には、筑志米多国造 ( つくしのめたのくにのみやつこ ) という国造が設置されていたことが、「先代旧事本紀・国造本紀」に記されており、この筑後平野に米多(めた)国という国があったということが容易に想像がつく。(参照:「先代旧事本紀 国造本紀6 九州地方)
そういうわけで、吉野ヶ里遺跡周辺には、米多国の痕跡を思わせる地名が多く残っているので、その例をいくつか挙げてみると、
佐賀県神埼郡吉野ヶ里町吉田目達原
佐賀県三養基郡米多郷
などである。
この米多国は、中国史書の後漢書東夷伝にも登場している。それが次の記載で、中国史書に出てくる最初の日本人の個人名といわれている西暦107年の倭国王・帥升の記事である。
安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。
引用元:後漢書東夷伝
これだけ見れば、米多国とどこに関係があるのだろうか?と疑問に感じるが、この倭国王・帥升のより詳細な記載がある史書がいくらか残っている。「安帝の永初元年、倭の国王帥升等」の部分が、『翰苑』所引の『後漢書』には「倭面上国王帥升」とあり、唐類函・変塞部倭国の条所引の『通典』には「倭面土地王帥升」とあり、北宋版『通典』には「倭面土王帥升」とあることである。 この倭国王は、倭国全体の王ではなく、「面土国」という名の国の王だったようなのだ。そして、この「面土」という単語は、上古音・中古音から考察して、「面土(めた)」と呼んでいた可能性が高い。
つまり、西暦107年に後漢に使者を送った面土国の痕跡は、後の筑志米多国へと継承された可能性が高いのだ。
よって、吉野ヶ里遺跡は、西暦3世紀の邪馬台国の集落ではなく、西暦107年に後漢に使者を送った倭の面土国王・帥升の集落だったと思われる。
この倭の面土国王・帥升に対するより詳細な考察は
→ 卑弥呼以前の最初の人物・倭国面土国王帥升