よく、世間一般で言われる狗奴国の推定地に、狗奴という名前を「くな」とか呼んで、九州南部にいた倭の本流から見れば夷人勢力扱いだった「熊襲(くまそ)」に当てはめる場合が多い。これは、狗奴国の官が魏志には「狗古智卑狗(ココチヒコ or クコチヒク)」であることから菊池彦と解釈し、熊襲の勢力が比較的に遅くまで残っていた熊本こそが狗奴国だとみる動きがある。むろん、その他にも、熊襲がより最近まで残っていた鹿児島や、邪馬台国畿内説の中には、前方後円墳と前方後方墳という古墳の形状の違いから、前方後方墳の分布範囲だった濃尾平野を狗奴国の地だと推定する動きもある。
そして、これらに共通するのが、邪馬台国を中心とした倭国連合とは違う異文化圏・異民族圏のような存在として、狗奴国を見る傾向が強いのである。でも、それは本当にそうなのだろうか?
邪馬台国論争で注目されるのが、邪馬台国の女王・卑弥呼とは仲が悪い狗奴国の男王・卑弥弓呼である。この名前を聞いたとき、卑弥呼と卑弥弓呼の名前の類似性の強さから、この二人は非常に近い文化圏の者同士なのだと推測できるのでは?いや、それどころか、この二人には同族の匂いすら感じるのである。
そして、「卑弥呼」「卑弥弓呼」をそれぞれ上古音、中古音から判断して、「卑弥呼」という呼称は、「日巫女」「姫命」という日本語の発音を表しているという説があり、それならば「卑弥弓呼」という呼称は、「彦御子」「彦命」を表している説もある。これらは、日本書紀や古事記にも出てくる皇族たちの尊称でもあり、「卑弥呼」「卑弥弓呼」も神聖化された存在だった可能性が強い。
この場合、魏国と仲が良かった邪馬台国は、自国(邪馬台国)の女王の呼称を、「卑弥呼(日巫女 or 姫命)」と尊称の発音で、魏の使者を通じて、魏志倭人伝にその発音で伝えることが出来るのは想像出来る。しかし、狗奴国の場合、邪馬台国と敵対していたわけだから、狗奴国の望みどおりの情報ではなく、敵対する邪馬台国主観の偏見に基づいた呼称が、魏に伝えられたはずである。
しかし、魏志倭人伝に伝えられた狗奴国の男王の呼称は、「卑弥弓呼(彦御子 or 彦命)」という尊称で伝えられているのだ。この呼称は、おそらく、邪馬台国側が狗奴国の男王のことを「卑弥弓呼(彦御子 or 彦命)」と呼んでいたから、魏志にはそう記されたのだと思う。ということは、狗奴国の男王は、敵対している邪馬台国側の人間から、尊称で呼ばれていたと想像出来る。
これは、狗奴国の男王「卑弥弓呼(彦御子 or 彦命)」が、邪馬台国の女王「卑弥呼(日巫女 or 姫命)」と同族の王家の出身だったからなのでは?そのように解釈すれば、この邪馬台国と狗奴国との戦いが、邪馬台国を中心とした大倭国連合の身内同士の主導権争いだったのでは?という結論になるのでは?
そして、当サイトでは、この狗奴国の男王を、日本書紀などに登場する武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと、孝元天皇の皇子)のことだと解釈している。より、詳しくは、下の関連ページへ。
関連ページ:
狗奴国との戦い〜卑弥呼の急死