歴史Ranking

2027年02月07日

狗奴国は許乃國(山城の宇治)


魏志倭人伝などの中国史書には、邪馬台国の卑弥呼と仲が悪く戦う相手になる狗奴国の男王・卑弥弓呼が登場する。この狗奴国や卑弥弓呼についても、邪馬台国論争の解明をとく大きな鍵の一つとされる。

 東南至奴國百里、官曰馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戸。

 東南の奴国に至るには百里、官は馬觚、副は卑奴母離といい、二万余戸ある。

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 自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。

 自女王国より北は、その戸数、道程を簡単に記載しえたが、その余の国は遠くて険しく、詳細を得ることが出来なかった。次に斯馬国、已百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国があり、これが女王の領域内の全部である。

 其南有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。

 その南に狗奴国があり、男性を王と為し、官には狗古智卑狗があり、不属女王に従属していない。郡より女王国に至るには一万二千余里である。

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 其八年、太守王到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米為檄告之。

 その八年(247年)、(帯方郡)太守の王が(洛陽の)官府に到着した。 倭の女王「卑彌呼」と狗奴国の男王「卑彌弓呼」は元より不和。倭は載斯、烏越らを派遣して、(帯方)郡に詣でて攻防戦の状況を説明した。(帯方郡は)長城守備隊の曹掾史である張政らを派遣し、詔書、黄幢をもたらし、難升米に拝仮させ、檄文を為して、(戦いを止めるように)これを告諭した。
引用元:『三国志魏書』倭人伝


「自女王國以北・・・次有奴國、此女王境界所盡。」と続いて、「其南有狗奴國」(その南に狗奴国があり)という感じで、狗奴国が登場する。

世間一般的には、こういう書き方をしていると、狗奴国は邪馬台国の南の国だ錯覚しやすい。しかし、よく読んでみると、そうとは言い切れないことが分かる。

「其南」の起点が不明だ。女王国(邪馬台国)の南なのか、女王国と狗奴国の間に上の諸国を挟むのか。なかでも、最後に出てきた奴国の南なのか?

これにより、後の狗奴国との抗争の性質も変わる。「女王国の南」「奴国の南」なら邪馬台国と狗奴国の争い、そうでなければ、「倭国全体」と狗奴国の大規模な争いとも解釈できる。

女王に従わないのは何時のことか?狗奴国が、後に登場する珠儒国・裸国・黒歯国と同じ場所ではなくここに書かれているのは倭国の一部という認識か?

後に登場する狗奴国との抗争を論拠として、狗奴国は邪馬台国を中心とする倭国30ヶ国連合に匹敵する大国とする説があるが、どうも素直には受け入れにくい。倭国を構成する一国と同規模のような気がする。

だとしたら、もともと邪馬台国を中心とした倭国連合に属していた狗奴国が、倭国連合の盟主の座を狙って、邪馬台国に反旗を翻したという見方が出来ないだろうか?


ここで「魏略」に注目すべき記載がある。
女王之南又有狗奴國 以男子爲王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也

女王の南、また狗奴國あり。 男子を以って王と爲す。 其の官を拘右智卑狗という。 女王に属さぬなり。
引用元:魏略(逸文4)翰苑卷三十


魏志では、狗奴国の官を「狗古智卑狗」としているが、魏略では「拘右智卑狗」と書かれている。どちらかが誤写なのだろうが、当サイトでは、魏略の「拘右智卑狗」を正解とし、河内彦(コウチヒコ)と解釈する。狗奴国の男王・卑弥弓呼を彦命(ヒコミコト)と解釈し、日本書紀に登場する武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)のことでは?と解釈する。

参照ページ:
狗奴国との戦い〜卑弥呼の急死
邪馬台国の所在地(官名・人名などから推定)

もし、狗奴国の官が「拘右智卑狗」=「河内彦」だとしたら、この狗奴国は、大阪南部にあった河内国(古代は、和泉国も河内国の一部だった)のことだと解釈できないだろうか?しかし、狗奴国という名前には、河内国を連想させる国名ではない。


そこで、武埴安彦命という人物を詳しく分析してみたい。

彼は、孝元天皇の庶子で、生母は埴安媛で河内青玉繋の女である。そういうわけで、彼は幼い頃から、外戚の影響で河内と深い関係にあった。このことは日本書紀にもよく記載されているし、大阪には武埴安彦ゆかりの史跡なども残っている。崇神天皇10年の武埴安彦の乱では、彼の妃の吾田媛が大坂から大和を攻めようとしたことからも理解できる。このことが、魏略逸文の狗奴国の官・拘右智卑狗が、河内彦のことではないのか?という解釈する理由の一つだ。

しかし、一方で、武埴安彦の大乱では、武埴安彦命自身は、山城国から大和国を攻撃している。つまり、武埴安彦側は、河内国と山城国の二方面から大和国を挟み撃ちにしたのだ。これは、武埴安彦命の外戚の所領は河内国だったが、彼自身の所領は山城国にあったか、あるいは、武埴安彦命は河内国(外戚つながり)と山城国の両方に所領があったからだろう。

つまり、武埴安彦命=狗奴国王・卑弥弓呼と仮定した場合、もし、河内国からは狗奴国が連想できないのなら、狗奴国を連想させる地域は山城国にあったのかもしれないのだ。いや、武埴安彦命自身の本領が山城国にあったのなら、そちらの地名が狗奴国になった可能性がある。

では、山城国に狗奴国を連想させる地名・国名はあったのだろか?...次がその地名の痕跡なのである。

山城の國の風土記に曰はく、宇治と謂ふは、輕島の豐明の宮(應~天皇)に御宇しめしし天皇のみ子、宇治若郎子(仁コ天皇弟)、桐原の日桁の宮を造りて、宮室と為したまひき。御名に因りて宇治と號く。本の名は許乃國と曰ひき。
引用元:宇治(詞林采葉抄 第一:存疑)・山城國風土記逸文


山城国宇治、つまり、現在の京都府宇治市のあたりは、本の名前を「許乃國(このくに)」と言ったのだ。まさに武埴安彦命の本領の地であり、崇神天皇10年の武埴安彦命の大乱は、この近辺で大激戦があったのである。

一方、「狗奴」は中古音では『k∂u-no(ndo)』(この)と呼び、「狗奴國=許乃國=このこく」だった可能性が高いと思われる。

しかし、ここで気になるのは、「奴」という漢字を中古音の「no(の)」と発音して解釈したことである。魏志倭人伝などの中国史書では、博多湾沿岸にあった「那の県(なのあがた)」を戸数2万余戸の「奴國(なこく)」のことだと解釈して、「奴」という漢字を「nag(な)」と発音して上古音で解釈しているのである。

こんな一貫性の無い解釈で良いのだろうか? 実は、最近の研究では、後漢時代から魏の時代にかけて、中国の漢字の発音は、上古音から中古音に変化した転換点だったようなのである。つまり、魏志倭人伝・魏略にでてくる倭(日本)の国名は、上古音と中古音が交差しているのだ。北九州にあった奴国と畿内にあった邪馬台国・狗奴国とでは、日本と中国の関係が緊密化した時期が大きく異なっていたからだ。

奴国が中国と関係は、西暦57年の金印でも分かるとおり後漢の時代には既に中国側の文献に乗るほど緊密で、「那の県(なのあがた)」にあてる漢字は、上古音で当てられた可能性が高い。上古音では「奴」という漢字を「nag(な)」と発音するので、後漢時代の中国人たちは博多湾沿岸の国「な」を漢字で「奴」国としたのだった。この漢字で博多湾沿岸の国「な」を「奴國」という慣習は、魏の中古音の時代になっても続いたように思われる。

しかし、畿内にあったと思われる邪馬台国・狗奴国などが中国との関係が有名になったのは、中古音になってからの時代であり、これらの国は、中国人たちは中古音の知識で漢字を当てた可能性が高いのだ。よって、魏志倭人伝には、戸数も記されていない国々が20数カ国あるのだが、それらの国には「奴」という漢字がつく国が多い。おそらく、これらは中古音で「no(の)」と発音する可能性が高いように思う。古来の日本国内の国名を言う時には、格助詞「の」をつけて「武蔵の国」「相模の国」というふうに呼ぶことが多いが、おそらく、魏人(中国人)たちは倭人(日本人)から、日本諸国の国名を聞いた時に、この格助詞「の」が耳に残ったのが影響しているのだろう。


以上のことから、狗奴国とは、許乃國(山城の宇治)だという結論に達した。しかし、これで全てが解決したわけではない。中国史書では、其(邪馬台国?奴国?邪馬台国連合?)の南の国だとか、邪馬台国?の東の国だというふうに記述してあることだ。狗奴国=許乃國(山城の宇治)だとしたら、邪馬台国とか奴国とかは、山城の宇治よりも北にあったことになる。でも、そうは思えない...

日本書紀によると、武埴安彦命の乱とは、武埴安彦命を支持する勢力が、山城と河内の二方面から大和(百襲媛命・崇神天皇)を挟み撃ちした戦争であり、武埴安彦命を狗奴国王・卑弥弓呼と仮定した場合、狗奴国というのは、山城と河内に二つの国に飛び地で領国が広がっていた可能性がある。だとしたら、狗奴国は地理的に一つに纏まった国ではなかったので、魏の使者も混乱したのかもしれない。

あるいは、魏の使者が、この狗奴国王(武埴安彦命)の反乱を見に行った時に、おそらく丹波(丹後)の港から倭国内に入った可能性がある。古来、この丹波(丹後)の港は、日本海側の重要な港だった可能性が高く、ここは、皇室と同じアメノオシホミミの子孫であり、皇室の外戚にもなっていた、海部氏の領国でもあった。そこから、この乱の様子を見に行ったので、狗奴国を南の国と理解したのかもしれない。

参照:古代海部氏の系図

そもそも、この魏書の記述の雰囲気から、魏の使者が倭国についた時には、既に卑弥呼が死んで墓を作っており、卑弥呼が百襲媛命ならば、既に狗奴国王・卑弥弓呼(武埴安彦命)の乱は鎮圧された後であり、狗奴国というものは消滅していた可能性が高い。そういうところから、中国側の史料では方角について混乱したのかもしれない。

魏志(魏書)倭人伝では、推定地が確かといわれている北九州にあった奴国・伊都国などへの方角からして、明らかに90度ずれている。何故、こうも魏志・魏略などでは方角が無茶苦茶になったのか、今後、研究する必要があると思う。




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posted by 邪馬台国総論 at 12:58 | TrackBack(0) | コンテンツ

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