魏書などの中国史書に出てくる邪馬台国の女王卑弥呼。これは一体、誰なのか?現代でも永遠と続く論争なのだが...
しかし、この女王卑弥呼は、現代人だけではなくて、日本書紀を編纂した1300年前の人たちにとっても、最大の謎の一つだったことは意外に知られていない。
そこで、次の表の神功皇后の在位期間を参照してもらいたい。
日本書紀に記載されている
天皇の在位期間 |
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代数 | 天皇名 | 在位期間 | 代数 | 天皇名 | 在位期間 |
33 | 推古 | 592-628 | 16 | 仁徳 | 313-399 |
32 | 崇峻 | 587-592 | 15 | 応神 | 270-310 |
31 | 用明 | 585-587 | 神功皇后 | 200-270 | |
30 | 敏達 | 572-585 | 14 | 仲哀 | 192-200 |
29 | 欽明 | 539-571 | 13 | 成務 | 131-190 |
28 | 宣化 | 535-539 | 12 | 景行 | 71-130 |
27 | 安閑 | 531-535 | 11 | 垂仁 | BC29-AD70 |
26 | 継体 | 507-531 | 10 | 崇神 | BC97-BC30 |
25 | 武烈 | 498-506 | 09 | 開化 | BC158-BC98 |
24 | 仁賢 | 488-498 | 08 | 孝元 | BC214-BC158 |
23 | 顕宗 | 485-487 | 07 | 孝霊 | BC290-BC215 |
22 | 清寧 | 480-484 | 06 | 孝安 | BC392-BC291 |
21 | 雄略 | 456-479 | 05 | 孝昭 | BC475-BC393 |
20 | 安康 | 453-456 | 04 | 懿徳 | BC510-BC477 |
19 | 允恭 | 412-453 | 03 | 安寧 | BC549-BC511 |
18 | 反正 | 406-410 | 02 | 綏靖 | BC581-BC549 |
17 | 履中 | 400-405 | 01 | 神武 | BC660-BC585 |
1300年前の日本書紀の編纂者たちは、神功皇后を女王卑弥呼だという結論を出して、編纂したと思われる。日本書紀の年代では神功皇后は、中国史書に登場する女王卑弥呼や女王台与と同時期を生きた人となっている。
そして、次の日本書紀や中国史書の記載を見ていただきたい。
是年、晉武帝泰初二年。晉起居注伝、武帝泰初二年十月、倭女王遣重譯貢献。
この年、晉の武帝の泰初(泰始の誤り)二年。晉の起居注に伝わく、武帝の泰初(泰始の誤り)二年十月、倭の女王、訳を重ねて貢献せしむといふ。
引用元:日本書紀 神功皇后 摂政紀 (六十六年)
立其宗女臺輿爲王。【魏略云、倭人自謂太伯之後。】其後復立男王、並受中國爵命。晉武帝太始初、遣使重譯入貢。
その宗女台与を立て王となす。【魏略に伝わく、倭人は自ら太伯の後という。】その後また男王立ち、中国の爵命を受く。晋の武帝の太始初(泰始初の誤り、泰始二年)、使を遣わし訳を重ねて入貢す。
引用元:通典 東夷伝
「日本書紀 神功皇后 摂政紀 (六十六年)」に引用されている西暦で266年の朝貢記事である。ここには、倭の女王とある。実は、これを女王とするのは日本書紀のみである。日本書紀は、この朝貢も神功皇后としている。
中国の史書「通典 東夷伝」は、梁書と晋書の記事も紹介しながら書いてあるのだが、この通典の記述が本当なら、泰始二年(西暦266年)の朝貢は台与ではなく、次の男王となる。真偽は分からないが、この著者は梁書の『其後復立男王、並受中國爵命。』の男王を賛から武までの倭の五王とは別人として解釈している。
これらのことから、1300年前の日本書紀の編纂者は、中国史書に出てくる二人の女王(卑弥呼と台与)を、年代の引き伸ばしをしてでも、神功皇后に当てはめようとしていたことが分かる。
しかし、この日本書紀の年代は、上古代の日本が二倍年暦だったということを考慮していない年代である。ということは、日本書紀の編纂者は、上古代の日本の暦が違っていて二倍年暦だったことに最後まで気がつかないまま、日本書紀を編纂したことになる。科学の発達していない古代の編纂者たちは、上古代の人物の異様に長い寿命を、本当にそれだけ長く生きたのだと解釈したのかもしれない。
日本書紀の編纂者が、上古代の日本の暦が二倍年暦だったことに最後まで気がつかないまま、日本書紀を編纂したのだろうと思われる箇所としては、応神天皇の出生に関しての記述でも分かる。応神天皇は、父親の仲哀天皇の死後、一年くらい経ってから産まれたことになっており、そのことを日本書紀の編纂者たちは、生母の神功皇后が無理して出産時期を遅らせたというふうに言い訳している。
しかし、上古代の日本の暦が二倍年暦だったとしたら、実際は仲哀天皇の死後、半年で産まれたことになり、仲哀天皇の最期まで神功皇后は一緒だったことから、生物学的にも不思議なことは無い。このことからも、日本書紀の編纂者は、上古代の日本の暦が二倍年暦だったことに最後まで気がつかないまま、日本書紀を編纂したことが分かる。
日本書紀に登場する上古代の天皇の寿命や在位年数が異様に高いのは有名だが、これらは上古代の日本の暦が二倍年暦だったことが大きな原因だったというのは、当サイトでは何度も説明している。しかし、日本書紀では、それだけを考慮しても、年代に矛盾が生じていることも有名だ。これは、それ以外で何らかの改竄を年代に加えられていたことが推測される。
その年代に加えられた改竄の一つが、中国史書に出てくる女王卑弥呼に神功皇后を当てはめるために、その前後の天皇の年代を改竄した可能性が高い。
神功皇后の年代を卑弥呼に合わせるために、彼女の後に生きた天皇でも、生存期間、在位期間、記述の内容が合わない天皇が何人かいる。その一人が仁徳天皇であり、神功皇后を卑弥呼の年代に合わせるために、彼の在位期間の引き延ばしを加えたのではと思われる。
むろん、なかには、年代を引き伸ばしただけではなくて、神功皇后という全くの架空の人物を作り出したという説を提唱する人もいる。
しかし、もし完全に架空の人物を作るのなら、卑弥呼と台与という二人の女王に対応させるために、二人の神功皇后のような人物を作り出せば良いのである。しかし、それをしなかったことを思うと、神功皇后のような人物は一応、存在したのであり、だからこそ、彼女一人で二人の女王(卑弥呼と台与)に対応していると、日本書紀の編纂者たちは納得するしかなかったのである。
また、神功皇后と卑弥呼では全く経歴が違いすぎる。魏志・魏略などの中国史書の記載では、卑弥呼は生涯独身であり、その活動範囲は倭国内に限定されており、死の直前の10年間である西暦239年〜247年は、対中国(魏)外交、倭国内の紛争と詳細に記載されている。しかし、日本書紀記載では、神功皇后は生涯独身ではなく子も産んでおり、その活動範囲は海外出兵もあり、魏志に書かれた卑弥呼の死の直前の10年間である西暦239年〜247年は、朝鮮半島出兵に勤しみ、その半島情勢も魏の帯方郡の形跡がないなど大きく異なっている。
これらのことから、神功皇后は実在の人物であり、日本書紀の編纂者はその人物を卑弥呼だと自己流に解釈して、無理に二人の活躍時期を合わせようとしたのだと思う。
以上のことから、日本書紀の編纂者たちは、中国史書に出てくる女王卑弥呼に神功皇后を当てはめるために、その前後の天皇の年代を改竄した可能性が高いと思われる。これらのことを参考にして、日本書紀の年代の改竄された部分を修正していくと、上古代の日本の歴史の真の年代が導き出されるかもしれない。
関連ページ:
日本書紀の年代の謎〜二倍年暦・辛酉年・卑弥呼・皇位継承の混乱