★YouTubeチャンネルを開設しました。⇒ 古代日本建国ミステリー
  1. 魏志倭人伝に登場する「邪馬台国」と「投馬国」の所在地は?漢字の音韻や古代の海上交通から考える
  2. 『魏志倭人伝』に登場する「人名」「国名」「出来事」は『古事記』『日本書紀』にも登場する!?
  3. 「倭国大乱→倭女王 卑弥呼共立」から「皇室系図 欠史八代」の謎が解ける!そこから「出雲の国譲り→高天原の倭国統一」高天原出身の真の初代倭王の正体も明らかに!
  4. 日本皇室が隠したい「天皇家の正統性問題」とは?「国作り」「国譲り」「天孫降臨」「神武東征」「欠史八代」「四道将軍派遣」の真相

歴史Ranking

2027年02月07日

倭国大乱の直前・七八十年続いた男王の時代


魏志倭人伝には、卑弥呼擁立の切欠になった倭国大乱の前は、倭国(邪馬台国?)では男王の時代が、約70〜80年くらい続いたと記載されている。
 其國本亦以男子為王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫婿、有男弟佐治國。自為王以來、少有見者。以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衛。
 その国、本は男性を王としたが、七、八十年で中断し、倭国は擾乱、互いの攻伐が何年も続くに及んで一人の女性を王として共立した。名を卑彌呼といい、鬼道(五斗米道の教え)に従い、(呪術で)よく衆を惑わす。年齢は既に高齢で夫はなく、弟がいて国の統治を補佐した。王位に就いて以来、会えるものは少なく。婢(下女)が千人、その側に侍り、ただ一人の男性が食事を給仕し、伝辞のため出入する。居住する宮殿や楼観、城柵は厳重に設けられ、常に武器を持った守衛がいる。
引用元:『三国志魏書』倭人伝


この倭国大乱が始まる前の七八十年間は、倭国に男王がいたということだが、どの年代を基点に七八十年間か分からない。

 桓霊間倭國大亂、更相攻伐、暦年無主。有一女子名曰卑彌呼。年長不嫁、事神鬼道、能以妖惑衆。於是共立属王。侍婢千人、少有見者。唯有男子一人給飲食、傳辭語。居處宮室樓觀城柵、皆持兵守衛。法俗嚴峻。
 桓帝と霊帝の間(146−189年)、倭国は大乱、互いに攻伐しており、暦年に亘って君主がいなかった。一人の女子がいて、名を卑彌呼という。年増だが嫁がず、神鬼道に仕え、よく妖術を以て大衆を惑わす。ここにおいて(卑彌呼を)王に共立した。侍婢は千人、会える者は少ない。ただ飲食を給仕し、言葉を伝える一人の男子がいる。暮らしている宮殿、楼観、城柵、いずれも武器を持って守衛する。法俗は峻厳である。
引用元:『後漢書』東夷伝
 漢靈帝光和中、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子卑彌呼為王。彌呼無夫婿、挾鬼道、能惑衆、故國人立之。有男弟佐治國。自為王、少有見者、以婢千人自侍、唯使一男子出入傳教令。所處宮室、常有兵守衛。
 漢の霊帝の光和中(178−184年)、倭国は乱れ、何年も戦さを続けたので、卑彌呼という一人の女性を共立して王とした。彌呼には夫婿はなく、鬼道を身につけ、よく衆を惑わすので、国人はこれを立てた。国政を補佐する弟がいる。王となってより会った者は少ない、千人の婢が側に侍り、ただ一人の男子に教令の伝達のため出入させている。暮らしている宮殿には常に兵がいて守衛している。
引用元:『梁書』倭国伝


いつから、その男王である倭王が存在していたのか考えてみる。

「後漢書」の「桓帝と霊帝の間(146−167ー189年)」が基点の場合、桓帝の初年(146年)を基点としたら、西暦66年〜76年、桓帝の末年(167年)を基点としたら、西暦87年〜97年であり、総合してみて、その男王である倭王が存在していたのは、西暦66年〜97年の間からだといえる。ただし、この魏志に書いてある「七八十年」が倭人の二倍年暦での年数だったと考えた場合は、その男王である倭王が存在していたのは、西暦106年〜132年の間からだといえる。

「梁書」の「漢の霊帝の光和中(178−184年)」が基点の場合、光和の元年(178年)を基点なら、西暦98〜108年であり、光和の末年(184年)を基点なら、西暦104〜114年であり、総合してみて、その男王である倭王が存在していたのは、西暦98年〜114年の間からだといえる。ただし、この魏志に書いてある「七八十年」が倭人の二倍年暦での年数だったと考えた場合は、その男王である倭王が存在していたのは、西暦138年〜149年の間からだといえる。


ただし、ここで割り出された数字でも分かるように、これらの数字は、「後漢書」に出てくる「安帝永初元年(107年)、倭国王帥升」を元に、当時の編纂者が勝手に計算した数字かもしれない。その場合、このような解釈もあまり無意味かもしれない。当サイトでは、この107年の倭国王・帥升を、倭の面土(米多)国王・帥升とし、卑弥呼の邪馬台国とは別個のもと捉えているからだ。(参照:卑弥呼以前の最初の人物・倭国面土国王帥升


日本書紀、古事記、旧事本紀、神社伝承などの年代や記述をみたら、そこからだいたい推測されるのは、 「安帝永初元年(107年)、倭国王帥升」の頃は、皇室の支配権は、遠隔地の九州などには及んでいなかったようである。日本全国的に記述が増えるのは、孝霊天皇の時代からである。神武天皇が九州から飛び立って以来、次に九州に天皇の伝承が登場するのは孝霊天皇からであり、これは何を表しているのだろうか?


関連ページ
孝霊天皇伝承・桓霊間と靈帝光和中の記述




歴史Ranking
posted by 邪馬台国総論 at 17:14 | TrackBack(1) | コンテンツ

この記事へのトラックバック

奈良県 - 確実☆即決せフレ案内所
Excerpt: 登録からお相手検索、待ち合わせまで全てをこのサイトでチェック!
Weblog: 奈良県 - 確実☆即決せフレ案内所
Tracked: 2014-08-01 05:24
カテゴリ
HOMEへ


案内
コンテンツ
人物・官
書籍
御意見・御要望




※当サイトで使用されている画像は、googleアースなどの画像を画像処理したものです。



×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。