中国の史書には、2世紀後半に倭国(日本)で大乱があったことが記載されている。
其國本亦以男子為王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫婿、有男弟佐治國。自為王以來、少有見者。以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衛。
その国、本は男性を王としたが、七、八十年で中断し、倭国は擾乱、互いの攻伐が何年も続くに及んで一人の女性を王として共立した。名を卑彌呼といい、鬼道(五斗米道の教え)に従い、(呪術で)よく衆を惑わす。年齢は既に高齢で夫はなく、弟がいて国の統治を補佐した。王位に就いて以来、会えるものは少なく。婢(下女)が千人、その側に侍り、ただ一人の男性が食事を給仕し、伝辞のため出入する。居住する宮殿や楼観、城柵は厳重に設けられ、常に武器を持った守衛がいる。
引用元:『三国志魏書』倭人伝
桓霊間倭國大亂、更相攻伐、暦年無主。有一女子名曰卑彌呼。年長不嫁、事神鬼道、能以妖惑衆。於是共立属王。侍婢千人、少有見者。唯有男子一人給飲食、傳辭語。居處宮室樓觀城柵、皆持兵守衛。法俗嚴峻。
桓帝と霊帝の間(146−189年)、倭国は大乱、互いに攻伐しており、暦年に亘って君主がいなかった。一人の女子がいて、名を卑彌呼という。年増だが嫁がず、神鬼道に仕え、よく妖術を以て大衆を惑わす。ここにおいて(卑彌呼を)王に共立した。侍婢は千人、会える者は少ない。ただ飲食を給仕し、言葉を伝える一人の男子がいる。暮らしている宮殿、楼観、城柵、いずれも武器を持って守衛する。法俗は峻厳である。
引用元:『後漢書』東夷伝
漢靈帝光和中、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子卑彌呼為王。彌呼無夫婿、挾鬼道、能惑衆、故國人立之。有男弟佐治國。自為王、少有見者、以婢千人自侍、唯使一男子出入傳教令。所處宮室、常有兵守衛。
漢の霊帝の光和中(178−184年)、倭国は乱れ、何年も戦さを続けたので、卑彌呼という一人の女性を共立して王とした。彌呼には夫婿はなく、鬼道を身につけ、よく衆を惑わすので、国人はこれを立てた。国政を補佐する弟がいる。王となってより会った者は少ない、千人の婢が側に侍り、ただ一人の男子に教令の伝達のため出入させている。暮らしている宮殿には常に兵がいて守衛している。
引用元:『梁書』倭国伝
しかし、それぞれの史書によって、その倭国大乱の記述が微妙に違っているので、それぞれを詳しく分析してみたい。
倭国大乱の時期
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『後漢書』東夷伝
桓帝(146年〜167年)と霊帝(167年 - 189年)の間 -
『梁書』倭国伝
漢の霊帝の光和中(178年〜184年)
安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。
引用元:後漢書東夷伝
もしかしたら、「梁書」の「漢の霊帝の光和中(178年〜184年)」というより限定された年代は、「梁書」の著者が、この「後漢書」に記されている「安帝永初元年(107年)、倭国王帥升」の記述と、「魏志」の「其國本亦以男子為王、住七八十年、倭國亂」の記述から勝手に想像して、自分で「漢の霊帝の光和中(178年〜184年)」という年代を導き出しただけかもしれない。
となると、この「梁書」の「漢の霊帝の光和中(178年〜184年)」という記述は信頼性が無いのかもしれない。当サイトでは、この107年の倭国王・帥升を、倭の面土(米多)国王・帥升とし、卑弥呼の邪馬台国とは別個のもと捉えているからだ。(参照:卑弥呼以前の最初の人物・倭国面土国王帥升)
とはいえ、とりあえず、ここは、「梁書」の「漢の霊帝の光和中(178年〜184年)」という年代も信じてみて、次に話を進めてみる。
また日本国内の伝承には次のようなものがあるらしい。
「日野郡誌」によると、孝霊天皇が孝霊45年に鳥取県日野郡周辺にやってきて同71年まで賊徒を退治したと伝えられているが、私はこれが倭の大乱であると推定している。
引用元:古代史の復元〜第二節・年代推定
この「日野郡誌」の伝承がどこまで真実なのかは分からない。ただ、あえて、これを信じてみるのなら、この孝霊天皇の中国地方への遠征は、短期間で終結したのではなく、おそらく、何年かに渡って、数回あった遠征であり、その間に中断期間もあったはずである。
だからこそ、上の「後漢書」「梁書」のソースは違いが重要で、 おそらく「梁書」の霊帝の光和中(178年〜184年)の乱というのは、卑弥呼擁立の切欠になった最後の乱であり、それ以前の乱は、桓帝(146年〜167年)の時にあったのかもしれない。つまり、その間の167年〜178年は、乱の中断期間だった可能性がある。
よって、「日野郡誌」の伝承の孝霊71年は、霊帝の光和中(178年〜184年)のどこかの年で、「日野郡誌」の伝承の孝霊45年は、168年〜177年には入らないと推測できる。
ここで計算してみる。「日野郡誌」の伝承の孝霊年代は、二倍年暦の時代で、半年で一年と計算していたと推測される。(参照:二倍年暦・春耕秋収をはかり年紀となす) 孝霊45年〜孝霊71年は26年間だが、これは二倍年暦での年代だったと考慮して、今の暦(四季で一年)で計算すると13年間だと推測される。そうすると、次の西暦年代だったと推測できる。
考えられる孝霊天皇年代に対応する西暦年代
- 孝霊45年(167年)〜孝霊71年(180年)
- 孝霊45年(166年)〜孝霊71年(179年)
- 孝霊45年(165年)〜孝霊71年(178年)
また、最初に書いたように、「梁書」の「漢の霊帝の光和中(178年〜184年)」という記述は信頼性が無いとしたら、このような計算自体、意味が無いのかもしれない。ただ、とりあえず、騙されたものと考えて、倭国大乱の時期を勝手に想像してみた。
関連ページ
●倭国大乱の直前・七八十年続いた男王の時代