歴史Ranking

2027年02月07日

孝霊天皇伝承・桓霊間と靈帝光和中の記述


中国の史書には、2世紀後半に倭国(日本)で大乱があったことが記載されている。
 其國本亦以男子為王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫婿、有男弟佐治國。自為王以來、少有見者。以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衛。
 その国、本は男性を王としたが、七、八十年で中断し、倭国は擾乱、互いの攻伐が何年も続くに及んで一人の女性を王として共立した。名を卑彌呼といい、鬼道(五斗米道の教え)に従い、(呪術で)よく衆を惑わす。年齢は既に高齢で夫はなく、弟がいて国の統治を補佐した。王位に就いて以来、会えるものは少なく。婢(下女)が千人、その側に侍り、ただ一人の男性が食事を給仕し、伝辞のため出入する。居住する宮殿や楼観、城柵は厳重に設けられ、常に武器を持った守衛がいる。
引用元:『三国志魏書』倭人伝
 桓霊間倭國大亂、更相攻伐、暦年無主。有一女子名曰卑彌呼。年長不嫁、事神鬼道、能以妖惑衆。於是共立属王。侍婢千人、少有見者。唯有男子一人給飲食、傳辭語。居處宮室樓觀城柵、皆持兵守衛。法俗嚴峻。
 桓帝と霊帝の間(146−189年)、倭国は大乱、互いに攻伐しており、暦年に亘って君主がいなかった。一人の女子がいて、名を卑彌呼という。年増だが嫁がず、神鬼道に仕え、よく妖術を以て大衆を惑わす。ここにおいて(卑彌呼を)王に共立した。侍婢は千人、会える者は少ない。ただ飲食を給仕し、言葉を伝える一人の男子がいる。暮らしている宮殿、楼観、城柵、いずれも武器を持って守衛する。法俗は峻厳である。
引用元:『後漢書』東夷伝
 漢靈帝光和中、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子卑彌呼為王。彌呼無夫婿、挾鬼道、能惑衆、故國人立之。有男弟佐治國。自為王、少有見者、以婢千人自侍、唯使一男子出入傳教令。所處宮室、常有兵守衛。
 漢の霊帝の光和中(178−184年)、倭国は乱れ、何年も戦さを続けたので、卑彌呼という一人の女性を共立して王とした。彌呼には夫婿はなく、鬼道を身につけ、よく衆を惑わすので、国人はこれを立てた。国政を補佐する弟がいる。王となってより会った者は少ない、千人の婢が側に侍り、ただ一人の男子に教令の伝達のため出入させている。暮らしている宮殿には常に兵がいて守衛している。
引用元:『梁書』倭国伝


しかし、それぞれの史書によって、その倭国大乱の記述が微妙に違っているので、それぞれを詳しく分析してみたい。

倭国大乱の時期
  • 『後漢書』東夷伝
    桓帝(146年〜167年)と霊帝(167年 - 189年)の間


  • 『梁書』倭国伝
    漢の霊帝の光和中(178年〜184年)
と、「後漢書」「梁書」には、その倭国大乱があった時期が具体的に記されている。特に「梁書」にはより限定されてた元号が記されている。これらは、ちゃんとネタ元があったのか?と、いうと、「後漢書」には次のソースがある。

安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。
引用元:後漢書東夷伝


もしかしたら、「梁書」の「漢の霊帝の光和中(178年〜184年)」というより限定された年代は、「梁書」の著者が、この「後漢書」に記されている「安帝永初元年(107年)、倭国王帥升」の記述と、「魏志」の「其國本亦以男子為王、住七八十年、倭國亂」の記述から勝手に想像して、自分で「漢の霊帝の光和中(178年〜184年)」という年代を導き出しただけかもしれない。

となると、この「梁書」の「漢の霊帝の光和中(178年〜184年)」という記述は信頼性が無いのかもしれない。当サイトでは、この107年の倭国王・帥升を、倭の面土(米多)国王・帥升とし、卑弥呼の邪馬台国とは別個のもと捉えているからだ。(参照:卑弥呼以前の最初の人物・倭国面土国王帥升


とはいえ、とりあえず、ここは、「梁書」の「漢の霊帝の光和中(178年〜184年)」という年代も信じてみて、次に話を進めてみる。


また日本国内の伝承には次のようなものがあるらしい。
「日野郡誌」によると、孝霊天皇が孝霊45年に鳥取県日野郡周辺にやってきて同71年まで賊徒を退治したと伝えられているが、私はこれが倭の大乱であると推定している。
引用元:古代史の復元〜第二節・年代推定


この「日野郡誌」の伝承がどこまで真実なのかは分からない。ただ、あえて、これを信じてみるのなら、この孝霊天皇の中国地方への遠征は、短期間で終結したのではなく、おそらく、何年かに渡って、数回あった遠征であり、その間に中断期間もあったはずである。

だからこそ、上の「後漢書」「梁書」のソースは違いが重要で、 おそらく「梁書」の霊帝の光和中(178年〜184年)の乱というのは、卑弥呼擁立の切欠になった最後の乱であり、それ以前の乱は、桓帝(146年〜167年)の時にあったのかもしれない。つまり、その間の167年〜178年は、乱の中断期間だった可能性がある。

よって、「日野郡誌」の伝承の孝霊71年は、霊帝の光和中(178年〜184年)のどこかの年で、「日野郡誌」の伝承の孝霊45年は、168年〜177年には入らないと推測できる。

ここで計算してみる。「日野郡誌」の伝承の孝霊年代は、二倍年暦の時代で、半年で一年と計算していたと推測される。(参照:二倍年暦・春耕秋収をはかり年紀となす) 孝霊45年〜孝霊71年は26年間だが、これは二倍年暦での年代だったと考慮して、今の暦(四季で一年)で計算すると13年間だと推測される。そうすると、次の西暦年代だったと推測できる。

考えられる孝霊天皇年代に対応する西暦年代
  • 孝霊45年(167年)〜孝霊71年(180年)
  • 孝霊45年(166年)〜孝霊71年(179年)
  • 孝霊45年(165年)〜孝霊71年(178年)
これしか考えられない。ただし、この孝霊45年〜孝霊71年というのは鳥取県日野郡での話であり、吉備平定戦争がメインだったと思われる倭国大乱に完全は当てはまらないと思うので、倭国大乱は孝霊45年〜孝霊71年からはみ出した期間まで行われていた可能性がある。


また、最初に書いたように、「梁書」の「漢の霊帝の光和中(178年〜184年)」という記述は信頼性が無いとしたら、このような計算自体、意味が無いのかもしれない。ただ、とりあえず、騙されたものと考えて、倭国大乱の時期を勝手に想像してみた。


関連ページ
倭国大乱の直前・七八十年続いた男王の時代




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posted by 邪馬台国総論 at 16:57 | TrackBack(0) | コンテンツ
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