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2027年02月07日

古墳と記紀・日本書紀にある天皇陵墓の記述


邪馬台国と少し話がずれるが、日本書紀にある天皇陵墓に関する記述について気がつくことがあったので、ちょっと表にしてみました。

古墳と陵墓
代数 天皇名 本名・尊号 陵墓名(日本書紀より) 葬られた時期 備考
 
1 神武 神日本磐余彦(かむやまといわれひこ) 畝傍山東北陵 崩御後即   
2 綏靖 神渟名川耳(かむぬなかわみみ) 桃花鳥田丘上陵 安寧元年冬10月11日  
3 安寧 磯城津彦玉手看(しきつひこたまてみ) 畝傍山西南御陰井上陵 懿徳元年秋8月1日  
4 懿徳 大日本彦耜友(おおやまとひこすきとも) 畝傍山南繊沙渓上陵 懿徳崩年の翌年(孝昭元年の前年)冬10月13日  
5 孝昭 観松彦香殖稲(みまつひこかえしね) 掖上博多山上陵 孝安38年秋8月14日 彼の死後38年(実際は19年くらい?)もの間、葬られてなかったことに何らかの意味が感じられる。
6 孝安 日本足彦国押人(やまとたらしひこくにおしひと) 玉手丘上陵 孝安崩年(孝霊元年の前年)秋9月13日  
7 孝霊 大日本根子彦太王瓊(おおやまとねこひこふとに) 片丘馬坂陵 孝元6年秋9月6日 彼の死後6年(実際は3年くらい?)、葬られてなかった。
8 孝元 大日本根子彦国牽(おおやまとねこひこくにくる) 剣池嶋上陵 開化5年春2月6日 彼の死後5年(実際は3年くらい?)、葬られてなかった。
9 開化 稚日本根子彦大日日(わかやまとねこひこおおひび) 春日率川坂上陵 開化崩年(崇神元年の前年)冬10月3日  
10 崇神 御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ) 山辺道勾岡上陵 崇神崩年の翌年(垂仁元年)8月11日 or 垂仁元年(崇神崩年の翌年)冬10月11日 日本書紀の中で、崇神紀と垂仁紀の両方に葬った年が書いてあるのだが、崇神紀と垂仁紀では、その年月が違って書いてある。ここに編纂者の何らかの作為を感じる。
11 垂仁 活目入彦五十狭茅(いくめいりひこいさち) 菅原伏見東陵 垂仁崩年冬12月10日  
12 景行 大足彦忍代別(おおたらしひこおしろわけ) 山辺道上陵 成務2年冬11月10日  彼の死後2年(実際は1年くらい?)、葬られてなかった。


この中で注目なのは、孝昭天皇の崩御後、38年間(二倍年暦だったことを考慮すれば、実際は19年間くらい?)もの間、葬られてなかったことである。

これは、皇位継承に何らかの原因があったのでは?と推測される。それは、皇位継承紛争で孝昭天皇の陵墓の建設が遅れたのか、あるいは、孝昭天皇と次の孝安天皇に何らかの争いがあったのか、あるいは、孝昭天皇が崩御するずっと前に孝安天皇に譲位をして、両者の在位期間が長い間、かぶっていたのでは?などが推測される。

当サイトでは「孝昭天皇が崩御するずっと前に孝安天皇に譲位をして、両者の在位期間が長い間、かぶっていたのでは?」という説をとりたい。

日本書紀の年代で注目されるのは、異様に長い天皇の在位期間や年齢なのだが、これは二倍年暦が大きな要因といわれている。しかし、それだけを考慮しても、日本書紀の年代は辻褄が合わないことが多い。

これは一部の年代に関して、編纂者が改竄を加えた可能性があるからだろうが、それだけではなくて、皇位の在位期間に関して、生前中の譲位などで、一部、ダブっている箇所があるのでは?と考えられるからだ。

また、崇神天皇が葬られた時期に関しても、同じ日本書紀の中でも、崇神紀と垂仁紀では、葬られた日日が違うのである。このへんも何らかの作為が感じられる。一般的に、崇神天皇と垂仁天皇については、その年代に何らかの作為が入っていて、二倍年暦だけを考慮しても年代が合わないと言われている。このへんの年代に、何らかの改竄があるように思う。今後、このことに関して研究する必要がある。


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posted by 邪馬台国総論 at 18:12 | TrackBack(0) | コンテンツ

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