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中国史書と日本記紀との対応年表
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西暦年代 | 中国史書 | 日本記紀 |
57年 | 建武中元二年、倭の奴国が謹んで貢献して朝賀した。使人は大夫を自称する。倭国の極南界なり。光武帝は印綬を賜る。 | |
107年 | 安帝の永初元年、倭面土国王・帥升らに奴隷百六十人を献上させ、朝見(天子に拝謁する)を請い願う。 | |
2世紀 中頃 〜 後半 |
桓帝と霊帝の間(146−189年)、倭国は大乱、互いに攻伐しており、暦年に亘って君主がいなかった。一人の女子がいて、名を卑彌呼という。年増だが嫁がず、神鬼道に仕え、よく妖術を以て大衆を惑わす。ここにおいて(卑彌呼を)王に共立した。侍婢は千人、会える者は少ない。ただ飲食を給仕し、言葉を伝える一人の男子がいる。暮らしている宮殿、楼観、城柵、いずれも武器を持って守衛する。法俗は峻厳である。・・・『後漢書』倭人伝 霊帝の光和年中(178−184年)、 倭国は乱れ、何年も戦さを続けたので、卑彌呼という一人の女性を共立して王とした。彌呼には夫婿はなく、鬼道を身につけ、よく衆を惑わすので、国人はこれを立てた。国政を補佐する弟がいる。王となってより会った者は少ない、千人の婢が側に侍り、ただ一人の男子に教令の伝達のため出入させている。暮らしている宮殿には常に兵がいて守衛している。・・・『梁書』倭国伝 |
孝霊天皇(大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)『日本書紀』・大倭根子日子賦斗邇命(『古事記』))の御代、大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命は相協力して針間(播磨)を基点に吉備の国を平定した。・・・古事記 |
238年 | |
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239年 | 景初三年(239年)六月(原文では景初二年だが、誤記と解釈する)、倭の女王が大夫の難升米らを派遣して帯方郡に詣で、天子(魏の皇帝)に詣でて朝献することを求めた。
太守の劉夏は官吏を遣わし、送使を率いて京都に詣でる。 その年の十二月、詔書を以て倭の女王に報いて曰く「親魏倭王卑彌呼に制詔す。帯方太守の劉夏は使者を派遣し、汝の大夫の難升米、次使の都市牛利を送り、汝が献ずる男の奴隷四人、女の奴隷六人、班布二匹二丈を奉じて届けた。汝の存する場所は余りにも遠いが、遣使を以て貢献してきた、これは汝の忠孝であり、我は甚だ汝を哀れに思う。 今、汝を親魏倭王と為し、仮の金印紫綬を包装して帯方太守に付託し、汝に仮授せしむ。その種族の人々を鎮撫(鎮めなだめる)し、努めて孝順させよ。汝の使者の難升米、牛利は遠来し、道中の労に勤める。今、難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉と為し、銀印青綬を仮授し、引見して慰労を賜い、遣わして還す。 |
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240年 | 正治元年(240年)、帯方郡太守の弓遵は建中校尉の梯雋らを派遣し、詔書、印綬を奉じて倭国を訪れ、倭王に拝受させ、并わせて詔によって齎(もたら)された金、帛(しろぎぬ)、錦、毛織物、刀、鏡、采(色彩鮮やかな)物を賜り、倭王は使者に上表文を渡して、詔勅に対する謝恩の答礼を上表した | |
241年 | ||
242年 | ||
243年 | 正治四年(243年)、倭王は再び大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を遣使として奴隷、倭錦、絳青?(深紅と青の色調の薄絹)、綿衣、帛布、丹、木?(弓柄)、短い弓矢を献上した。掖邪狗らは一同に率善中郎将の印綬を拝受した。 | |
244年 | ||
245年 | 正治六年(245年)、詔を以て倭の難升米に黄幢(黄旗。高官の証)を賜り、帯方郡に付託して仮授せしめた。 | |
246年 | ||
247年 | 正治八年(247年)、(帯方郡)太守の王?が(洛陽の)官府に到着した。 倭の女王「卑彌呼」と狗奴国の男王「卑彌弓呼」は元より不和。倭は載斯、烏越らを派遣して、(帯方)郡に詣でて攻防戦の状況を説明した。(帯方郡は)長城守備隊の曹掾史である張政らを派遣し、詔書、黄幢をもたらし、難升米に拝仮させ、檄文を為して、(戦いを止めるように)これを告諭した。 |
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248年以降数年? | 卑彌呼は既に死去しており、大きな墓を作る。直径は百余歩、殉葬する奴婢は百余人。更新して男の王を立てるが、国中が服さず、更に互いが誅殺しあい、当時は千余人を殺した。再び卑彌呼の宗女「壹與」を立てる。十三歳で王となると、国中が遂に鎮定した。張政らは檄文を以て壹與を告諭し、壹與は倭の大夫の率善中郎将「掖邪狗」ら二十人を遣わして張政らを送り届けたによって、臺(皇帝の居場所)に詣でて、男女の奴隷三十人を献上、白珠五千、孔青大句珠(孔の開いた大きな勾玉)二枚、異文雑錦二十匹を貢献した。 | |
266年 | 泰始2年に倭の女王の使者が朝貢したとの記述があり、この女王は台与と考えられる。・・・日本書紀の神功紀に引用される『晋書』起居註 |