高地性集落(こうちせいしゅうらく)とは、日本の弥生時代中・後期に、平地より数十mも高い山頂部や斜面に形成された集落である。
弥生時代の集落遺跡は、周囲に濠をめぐらして外敵の侵入を防ぐ環濠集落が主たるものであり、これらはコメの生産地となる水田に近い平野部や台地上に形成されていた。
それに対して、人間が生活するには適さないと思われる山地の頂上・斜面から、弥生時代中期〜後期の集落遺跡、すなわち高地性集落の遺跡が見つかっており、その性格をめぐって様々な議論が提起されている。
まず、高地性集落の分布は、紀元前1世紀〜紀元2世紀に瀬戸内と大阪湾岸に、紀元3世紀以降に近畿とその周辺部にほぼ限定されている。そして、集落遺跡の多くは平地や海を広く展望できる高い位置にあり西方からの進入に備えたものであり、焼け土を伴うことが多いことから、のろしの跡と推定されている。遺跡の発掘調査からは、高地性集落が一時的というより、かなり整備された定住型の集落であることが判っている。また、狩猟用とは思えない大きさの石鏃(石の矢尻)も高地性集落の多くから発見されている。
以上を総合して、高地性集落を山城のように軍事的性格の強い集落とする意見が主流を占めている。
集落の分布状況から、紀元前1世紀〜紀元3世紀にかけて、北部九州〜瀬戸内沿岸〜畿内の地域間で軍事衝突を伴う政治的紛争が絶えなかったとの推測もなされている。さらに、紀元前1世紀〜紀元3世紀という時期に着目し、中国史書に見える倭国王の登場や倭国大乱との関連を重視する見方。他にも神武東征に象徴される九州勢力の東進に対する備えと見る説もある。一方環濠集落はほぼ弥生時代全期間を通じて存在した。これは、近隣のクニやムラとの戦いに備えたものであり、北部九州とヤマトというような遠く離れた地域間の戦いに備えたものでないことが考えられる。
20世紀末期ごろからは、高地性集落を特殊な集落と捉えるのではなく、他の環濠集落や非環濠集落との関連性に着目し、地域の拠点となる拠点集落とその他の集落という関係で見直す動きも出ている。
紀元前1世紀から紀元1世紀の日本といえば、西暦57年に奴国が後漢から印綬を貰ったり、西暦107年の面土国・帥升が奴国を征服し後漢に使者を送る直前の時代である。この年代のどこかで神武東遷があった可能性が高い。高地性集落が、畿内から瀬戸内海沿岸部にかけて多く建造されるが、まだ、九州・熊本以南や中部地方以東には殆ど建造されていない。また、最近の考古学の研究では紀元前50年ころには既に、九州同様、畿内でも中国思想を導入した街づくりが行われていたようである。
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紀元2世紀の日本といえば、西暦107年の面土国・帥升が奴国を征服し後漢に使者を送ったり、後半には卑弥呼擁立のきっかけになった倭国大乱があった時代である。この時代になると、高地性集落が、九州・熊本まで南下し、東海地方まで広がり始める。
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紀元3世紀の日本といえば、魏志倭人伝の邪馬台国の時代である。現在の考古学のデータでは、その時代の高地性集落の分布は九州から大和ではなく、大和から東や北の方角に変わるために、卑弥呼以後の九州から畿内への東遷説は説明しにくい。逆に、日本書紀に記載されている崇神天皇時代の四道将軍の大和から四方への派遣とは照応する。このことが、考古学者が邪馬台国大和説に傾く大きな理由になっているようだ。
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