日本に関する具体的な記述で最初のものは、後漢書東夷伝に書いてある。西暦57年に、倭奴國が中国の漢に朝貢し、印綬をもらったことである。
建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬。
建武中元二年(57年)、倭奴國、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を持ってす。
引用元:後漢書東夷伝
![]() |
漢委奴國王印文
|
有名な金印の記事だが、ここには『印綬』としか書かれていないが、翰苑残巻には「中元之際紫綬之榮」とある。
「倭奴國」を「倭の奴国」と読む説が有力だが、福岡県の志賀島で発見された「漢委奴國王」印では、「倭」のところが「委」と書いてあるので、委奴と解釈して「いと(伊都国)」と読み、「漢の委奴(いと)の国王」と訓じる説もある。 しかし、漢代の漢字音では奴をド、トとは読めないというのが定説であり、伊都国説は成り立たないように思う。
「倭国の極南界なり」も謎だ。一般的に奴国は北九州の博多湾沿岸にあったとされており、その奴国が倭の極南にあるというのは、どういうことなのか?しかし、これも、当時の中国人の日本に対する地政学的な観点から考察すれば、何も不思議なことは無い。次の地図を作成してみた。古代の中国人の日本に対する地理感を分かりやすく現してみた。
古代の大陸から見渡した日本列島。
それは日本海を囲むようにに広がる日本列島である。
古代の中国人の地理感は、日本海沿岸部は鮮明だが、太平洋沿岸部は曖昧。
日本海沿岸部に面した地域では、奴国は最南端にあることが分かる。
それは日本海を囲むようにに広がる日本列島である。

古代の中国人の地理感は、日本海沿岸部は鮮明だが、太平洋沿岸部は曖昧。
日本海沿岸部に面した地域では、奴国は最南端にあることが分かる。

古代の中国人にとって日本海沿岸部の地理感は明確だが、太平洋沿岸部は曖昧である(→地政学的見地からみた裏日本地図)。 当時の中国人が真っ先に思い描く日本列島の地形は、日本海沿岸部の地域なのである。そして、日本海沿岸部に面した地域では、奴国は最南端にあることが分かる。
倭奴国が「倭国の極南界なり」ということは、そういうことなのである。
関連ページ:魏志(魏書)に出てくる二つの奴国