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2027年02月03日

卑弥呼以前の最初の人物・倭国面土国王帥升


中国の史書に出てくる最初の日本の個人名は、後漢書東夷伝に出てくる倭国王・帥升(帥升等?師升?)だ。彼が中国に遣いを送ったのは、西暦で107年で、魏志に出てくる倭国大乱の卑弥呼よりも約50年以上前のことである。
安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。
引用元:後漢書東夷伝


上の後漢書の記述について様々な解釈があり、それによって、この人物について分析が大きく異なってくる。


倭国王の名は『帥升』で『等』は複数の王がいたことなのか、あるいは、『帥升等』で一つの名前なのか?後代の史書は、『師升』(『帥』ではなく『師』)とする。この記述を受け入れれば、この段階ですでに倭国が認知されていたことになるが、これを素直に読むと倭国王自らが中国に渡ったことになるし、また、『等』を“〜達”と読むと倭国王が複数存在するようでおかしい感じもしないわけではないが、他の様々な漢文の史料の用例から考察して、『等』という漢字を使えば、複数形のために使用した解釈するべきではないのか?

また、倭国王が『帥升』等(〜たち)を派遣した、あるいは、倭国王が『帥升等』を派遣したとも読む人がいるが、それは漢文の文法上、ありえない。『帥升』あるいは『帥升等』=倭国王だと解釈すれば良いだろう。


実は上の後漢書のソース以外にも貴重な記載がある。「安帝の永初元年、倭の国王帥升等」の部分が、『翰苑』所引の『後漢書』には「倭面上国王帥升」とあり、唐類函・変塞部倭国の条所引の『通典』には「倭面土地王帥升」とあり、北宋版『通典』には「倭面土王帥升」とあることである。

つまり、この倭国王とは、倭全体の国王ではなく、倭の『面上国』『面土地』『面土』といった倭の極一部の地域の国王の可能性が高い。

そして、この倭国王は中国から印綬を貰った形跡が無いのだ。これは、西暦57年の倭奴国王や西暦3世紀の邪馬台国王に印綬が送られたのとは対照的である。つまり、この両者よりも中国からの待遇が悪いのだ。

だとしたら、倭国王の名は『帥升』で『等』は複数の王がいたという解釈は、間違いではないような気がする。西暦107年、倭にある複数の国の王たちが朝貢し、その中でも代表的な大きな国が『面上国』あるいは『面土国』であり、その国の王が『帥升』あるいは『師升』という名前だったのではないだろうか?


では、この『面上国』あるいは『面土国』とは、どこにあったのだろうか?代表的な推定値をここに上げておきます。

福岡県みやま市山川町清水 面の土
佐賀県神埼郡吉野ヶ里町吉田目達
佐賀県三養基郡米多

『先代旧事本紀』の国造本紀に、「筑志米多国造 ( つくしのめたのくにのみやつこ )」という記載が出てくるが、おそらく、佐賀県三養基郡米多郷が所在地だったと思われ、このあたりは吉野ヶ里遺跡の近くでもあり、筑後平野一帯が支配地域だったのでは?と思われる。「面土」は上古音、中古音から想像して「メタ」と発音するのが正しいと思われる。よって、「筑志米多国」こそ、「面土国」の後継国なのでは?と思われる。
参照:『先代旧事本紀』国造本紀・九州地方


また、倭国王・帥升らは生口を160人献上したあるが、この生口は戦争捕虜のことであり、この倭国王(倭の面土国王?筑後平野?)・帥升は、ある国を攻め滅ぼしたのを機に中国(後漢)に使節を送ったのではないのか?しかし、それに対して、中国(後漢)は帥升らに印綬を与えようとはしなかった。ということは、帥升の戦争行為を認めなかったと思われる。この帥升の中国への朝貢は西暦107年のことであり、それよりも50年前の西暦57年に倭国(倭の奴国?博多湾沿岸?)が中国(後漢)から印綬を貰っていることから次のようなことが推測できる。

西暦57年、奴国が漢から印綬をもらい、倭の対中国外交の主導権を握る。しかし、やがて、筑後平野で勢力を拡大した面土国が奴国を侵攻・占領し、西暦107年、面土国王の帥升らは、奴国から奪った戦争捕虜(生口)160人ほどを連行して、漢に倭の代表権とそのための印綬を要求したが、漢はその要求には応えなかった。
西暦107年頃の北九州


西暦57年、奴国が漢から印綬をもらい、倭の対中国外交の主導権を握る。

しかし、やがて、筑後平野で勢力を拡大した面土国が奴国を侵攻・占領し、西暦107年、面土国王の帥升らは、奴国から奪った戦争捕虜(生口)160人ほどを漢への献上品として連行し、漢に倭の代表権とそのための印綬を要求したが、漢はその要求には応えなかった。



これが真実ではないだろうか?
より詳細な歴史地図:歴史年表地図




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posted by 邪馬台国総論 at 10:48 | TrackBack(0) | コンテンツ

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