魏志では、卑弥呼の死後、男王をたてたが国中が治まらなかったので、彼女の一族の13歳の少女・壹與(壱与)が女王になったと記載されている。梁書などの別の書では、壹與(壱与)ではなく、台与(臺與)となっている。どちらが正しいかは、このページを参考に→各史料に現れる『臺』と『壹』。ちなみに、ここでは、台与(臺與)のほうが正しいと判断して話を進めていく。
其八年、太守王到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米為檄告之。
その八年(247年)、(帯方郡)太守の王が(洛陽の)官府に到着した。倭の女王「卑彌呼」と狗奴国の男王「卑彌弓呼」は元より不和。倭は載斯、烏越らを派遣して、(帯方)郡に詣でて攻防戦の状況を説明した。(帯方郡は)長城守備隊の曹掾史である張政らを派遣し、詔書、黄幢をもたらし、難升米に拝仮させ、檄文を為して、(戦いを止めるように)これを告諭した。
卑彌呼以死、大作家、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與、年十三為王、國中遂定。政等以檄告壹與、壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還、因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。
卑彌呼は既に死去しており、大きな墓を作る。直径は百余歩、殉葬する奴婢は百余人。更新して男の王を立てるが、国中が服さず、更に互いが誅殺しあい、当時は千余人を殺した。再び卑彌呼の宗女「壹與」を立てる。十三歳で王となると、国中が遂に鎮定した。張政らは檄文を以て壹與を告諭し、壹與は倭の大夫の率善中郎将「掖邪狗」ら二十人を遣わして張政らを送り届けたによって、臺(皇帝の居場所)に詣でて、男女の奴隷三十人を献上、白珠五千、孔青大句珠(孔の開いた大きな勾玉)二枚、異文雑錦二十匹を貢献した。
引用元:『三国志魏書』倭人伝
正始中、卑彌呼死、更立男王、國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女臺與為王。其後復立男王、並受中國爵命。
正始中(240−249年)、卑彌呼が死に、改めて男の王を立てたが、国中が服さず、互いに誅殺しあったので、再び卑彌呼の宗女「臺與」を王として立てた。 その後、また男の王が立った、いずれも中国の爵命を拝受した。
引用元:『梁書』倭国伝
このように、中国の史書では、卑弥呼の死後、一族の少女である台与(とよ)が女王に擁立されたとある。では、日本の記紀では、これに一致するような記述があるのだろうか?
日本書紀には、百襲姫(=卑弥呼?)の後を受け継いだ巫女で、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)という崇神天皇の皇女が出てくる。彼女は初代斎宮になった人物でもある。
《崇神天皇元年(甲申前九七)二月辛亥(十六)》二月辛亥朔丙寅。立御間城姫為皇后。先是。后生活目入彦五十狭茅天皇。彦五十狭茅命。国方姫命。千千衝倭姫命。倭彦命。五十日鶴彦命。又妃紀伊国荒河戸畔女遠津年魚眼眼妙媛。〈 一云、大海宿禰女八坂振天某辺。 〉生豊城入彦命。豊鍬入姫命。次妃尾張大海媛。生八坂入彦命。淳名城入姫命。十市瓊入姫命。是年也、太歳甲申。
・・・・・・・・ 《崇神天皇六年(己丑前九二)》六年。百姓流離。或有背叛。其勢難以徳治之。是以晨興夕〓[立心偏(りっしんべん)+易]。請罪神祇。先是。天照大神。倭大国魂二神。並祭於天皇大殿之内。然畏其神勢、共住不安。故以天照大神。託豊鍬入姫命。祭於倭笠縫邑。仍立磯堅城神籬。〈 神籬。此云比莽呂岐。 〉亦以日本大国魂神。託渟名城入姫命令祭。然渟名城入姫命髪落体痩而不能祭。
日本書紀巻第五・崇神天皇
百襲姫命と豊鍬入姫命は、同じ皇族出身の巫女であり、百襲姫命と豊鍬入姫命の年齢差、また二人の名前の発音から考えて、中国史書に登場する卑弥呼と台与に当てはめられると思うのだが、どうだろうか?