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邪馬台国総論 - 倭の女王・卑弥呼の正体とは?
邪馬台国論争を中心に日本古代史を総合的に考察していきます。
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古代日本建国ミステリー
魏志倭人伝に登場する「邪馬台国」と「投馬国」の所在地は?漢字の音韻や古代の海上交通から考える
『魏志倭人伝』に登場する「人名」「国名」「出来事」は『古事記』『日本書紀』にも登場する!?
「倭国大乱→倭女王 卑弥呼共立」から「皇室系図 欠史八代」の謎が解ける!そこから「出雲の国譲り→高天原の倭国統一」高天原出身の真の初代倭王の正体も明らかに!
日本皇室が隠したい「天皇家の正統性問題」とは?「国作り」「国譲り」「天孫降臨」「神武東征」「欠史八代」「四道将軍派遣」の真相
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邪馬台国総論
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2036年02月02日
当サイトへの御意見・御要望
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posted by 邪馬台国総論 at 00:15 |
Comment(56)
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御意見・御要望
この記事へのコメント
邪馬台国掲示板の投稿から辿ってきました。
概略一読させて頂きました。
*「邪馬臺國」と言う国名の存在を肯定し「卑彌呼」が固有名詞として扱って居られますネ。
*私は、倭國の中の三十国の国名は、倭人の部族集落の國情説明文言を音写していると認識しています。
「卑彌呼」も職掌名で何人も何代も襲名している、と。
*「魏志倭人伝に出てくる…」との括りですが、其れでしたら「邪馬壹國」でしょう?。
*私は、倭人の弁の当て字音写を近現代日本語読みで読んではいけない、と思っています。即ち、古代倭語復元の語源解明からでなければ、謎は解けないと思っています。
Posted by 福島雅彦 at 2007年02月10日 22:13
福島雅彦さん、御意見ありがとうございます。
>*「魏志倭人伝に出てくる…」との括りですが、其れでしたら「邪馬壹國」でしょう?。
とのことですが、「魏志倭人伝に出てくる…」という箇所は削除しておきました。魏志倭人伝に出てくるというよりも、「邪馬壹國」「邪馬臺國」などを全般的に考察するサイトというほうが正しいですね。
今後も、色々な御意見を参考にして、適度に修正していきますので、よろしくお願いします。
Posted by 邪馬台国総論 at 2007年02月11日 11:14
>「卑彌呼」も職掌名で何人も何代も襲名している、と。
福島さん、「卑彌呼」が職業名というのは同意ですが、基本的に中国史書に記載されている「卑彌呼」は特定の個人を表していると思います。何故なら、次の女王が「卑彌呼」とは異なる名前で出てくるからです。
Posted by 名無し at 2007年02月11日 12:33
>基本的に中国史書に記載されている「卑彌呼」は特定の個人を表していると思います。何故なら、次の女王が「卑彌呼」とは異なる名前で出てくるからです。
※『後漢書』に登場の「卑彌呼」と『三国志(魏志倭人伝)』に登場の「卑彌呼」は別人と言う意味です。
*其れから、『三国志(魏志倭人伝)』に登場の「壹與」は「卑彌呼」職に即位するに当たり塞曹掾史張政の後見があった為に固有名詞が記載された、と。即ち、わが国のトップの固有名詞は壹與以外は中国正史に登場していない、と。
現・天皇家にもその伝統を受け継いでいて、苗字「氏・姓」がありませんし…。
Posted by 福島雅彦 at 2007年02月11日 14:25
察するに、私としては、邪馬台国は見解の違いをもっている者ですが、
『魏志倭人伝』に示されている事だけ、取り上げた、邪馬台国と皆さんなっているように、見受け
られます。
地政学的見地からみた裏日本地図
邪馬台国の所在地(人口から考察)
邪馬台国の所在地(官名・人名などから推定)
邪馬台国の所在地の推定(諸国の国名から推定)
倭迹迹日百襲媛命とは?
倭国大乱〜女王卑弥呼(百襲姫)誕生
狗奴国との戦い〜卑弥呼の急死
女王・台与(壱与?)は豊鍬入姫命?
卑弥呼以前・倭国王帥升等
卑弥呼以前・倭奴国王
二倍年暦・春耕秋収をはかり年紀となす
魏志(魏書)に出てくる二つの奴国
高地性集落の分布
弥生時代・AMS年代測定法の現状と可能性
全体をふくめ、その内容は『魏志倭人伝』に示されている事だけではないでしょうか?
ここには日本の正史が、
出ていないように、見られますが?
Posted by 研究者 at 2007年02月19日 13:09
研究者さん、ご返信ありがとう。
そんなことはないですよ、
日本正史も他の中国史書も取り上げています。
Posted by 邪馬台国総論 at 2007年02月19日 13:26
「邪靡堆」とは…
※現地踏査をして、裴世清は「古の邪馬臺は「邪靡堆」だつた」として居る。
*此れは、前史が国名としているが、勘違いで在ったとして正しているのである。即ち、「卑彌呼」の居所説明文言を国名と勘違いしていた、と。
*「國」の文字を外しているし、文字撰びが絶妙である。
・「靡く」=水縄連山(耳納山地)の山容・山態を表している。
東西25kmの山腹は、谷沢が千本の櫛の歯で梳ったさまを呈している。
・「堆」=「うずたかい(小山)」である、と。
※「東高西下」=水縄連山(耳納山地)と筑後川の西流を。
*伊都國の南千五百里に在る。
*投馬國以北と整合する。
*南に狗奴國と接している。
※水縄連山(耳納山地)=筑紫の日向の蘇の高千穂の[木患]触嶽でもある。
*此の山の山頂はノコギリの歯状を呈していて、千の穂が集っている(高千穂)でもある。
Posted by 福島雅彦 at 2007年03月05日 23:41
誤植連絡「日本書紀の年代の謎〜二倍年暦・辛酉年・卑弥呼・皇位継承の混乱」の中に「日本書記」が見られます。
それにしてもこのサイト・ブログはたいへん参考になります。
二倍年暦や河内彦、奴国は難波など
ミミと出雲は説得力があります。高地性集落も重要です
地図もいいです。
Posted by あぶくま at 2007年03月11日 17:50
あぶくまさん、誤植連絡、ありがとう。
Posted by 邪馬台国総論 at 2007年03月13日 01:11
勇者ロトさんの掲示板から来てみました。
全く同感です。
私も倭人伝でいう卑弥呼の墓はやまとととびももそひめの箸墓以外にはあり得ないと思います。
今後150メートル(魏の公式記録によると径145メートル)を越す規模の墓が九州で見つかれば九州説に転向してもいいですが、その可能性はたぶんないでしょう。
Posted by アンタレス at 2007年04月25日 15:07
アンタレスさん、コメント、ありがとう。卑弥呼の墓が箸墓かどうかはまだ曖昧だと思いますが、あのあたりの古墳群が邪馬台国と関係ありそうな気がしています。
Posted by 邪馬台国総論 at 2007年04月28日 01:55
径百余歩を前方後円墳の円部の直径と考える人が多いようですが、径は単にさしわたしという意味です。楕円形では、長径とか短径といいますね。前方後円墳ならば長さも幅も径であり、大きさを強調する倭人伝の記事は、前方後円墳ならば長さをいうと解釈すべきです。箸墓(276メートル)は卑弥呼の墓にしては、大きすぎることを知るべきです。
Posted by 卑弥呼の墓守 at 2007年05月11日 02:01
箸墓の長さは、後漢尺で1150尺 円部は650尺に相当し、その中心線は大田市の神社に指向されています。これは、大田田根子が初代祭祀を司った大三輪神社の祭に関係するものです。又、同時期に亡くなられた大王系の方々の墓を作製するのに大和は200年頃、大規模な土木工事事業のプロジェクトチームがあった事だと思います。さしあたり、後円部ができあがった時に、前方部の方角指向性について、チーム長である垂仁大王と大田田根子で決定しました。後円部と前方部の作製時期の時間差はこういう事でした。勿論、箸墓は卑弥呼(現日本語で媛巫女)です。
Posted by 高田 久嗣 at 2007年05月13日 15:49
ちょっと高田久嗣さんの意見をグーグってみたけど、年代的に無理があるんじゃないのか?
247年ころが、日本書紀に書いてある崇神天皇10年だと思う。
Posted by 邪馬台国総論 at 2007年05月15日 15:44
すみません 突然のコメントでびっくりされた事だと思います。大変 すばらしいホームページで驚いています。ただ、若干の補正がいると思い、メールさせていただきました。現在迄に考古学や言語学等で発見されている古墳や古代史関係の文献や調査報告書 及び現地調査も含めて、大和の歴史が、おおよそ 2200年前からわかり始めています。その中で後世補正された正当性だと称する文献 例えば、日本書紀や古事記は参考にはなりますが、全てを信用する訳にもいきません。今回は詳細は書きませんが、崇神天皇10年(?)は180年頃です。とりあえず、意見として お聞き下さい。このホームページに反論するものではありませんので御理解下さい。 高田久嗣
Posted by 高田 久嗣 at 2007年05月17日 11:46
私は関西で古代史を研究している広瀬満というものです。
長年古事記とりわけ大国主神を研究していましたが、近年大国主神は天武天皇の神格化であるという結論に達しました。
例えば身の危険を感じたオオナムヂが木の国に逃げ、そこも危なくなったので根の堅州国に脱出、そこで試練に耐えて力をつけ、根の堅州国を出て八十神の兄弟たちを倒し、葦原中国の王となり国づくりを始めるという神話は身の危険を感じて吉野に出家した大海人皇子が、その後東国に脱出し、近江朝廷を倒した壬申の乱と同形の話となっています。 またオオナムヂの周りの人間関係も大海人皇子の周りの人間関係とじつによく似ています。
これらのことから大海人皇子が天皇に即位したいきさつが大国主の神話として語られていたのではないかと考えたのです。
また大国主神が天武天皇の神格化だとすると出雲大社には天武天皇が大国主神として祀られている事になります。
そう考えますと古事記に大国主神の話がなぜ並々ならぬ分量でいきいきと書かれているのか、奈良時代なぜ出雲に巨大な神殿が建設(神魂神社に716年創建の記録がある)されたのか、「出雲国造神賀詞 」に代表されるようになぜ天皇家は出雲大社に大きな崇敬を寄せていたのかが理解できると思います。
これは徳川将軍家が始祖の家康を東照大権現として日光東照宮に祀り崇拝していたのと同じ理屈です。
また話が長くなりますのでここでは省略しますがスサノオは蘇我馬子の神格化と考えられます。
スサノオの力強く傍若無人な性格は「日本書紀」等からうかがい知れる蘇我馬子そのものです。
スサノオが牛頭天皇、新羅大明神、熊野権現、蔵王権現といった仏教の守り神と同神、または習合されているのもこのためだと考えています。
この2点(大国主神=天武天皇、スサノオ=蘇我馬子)を基点に記紀の研究を進めたところ、神話の解釈が容易になっただけでなく日本古代史は実に意外な姿を見せてくれます。
たとえば大国主神=天武天皇、スサノオ=蘇我馬子の構図がわかれば例の明日香村の高松塚古墳、キトラ古墳が蘇我蝦夷、蘇我入鹿親子の墓であることが容易にわかりますし、さらに重大なことはどうやら皇統は万世一系ではなく推古天皇と舒明天皇の間に断絶があり、天皇家の祖が実は蘇我馬子であるということも神話のその構図の中から浮かび上がってきます。
また聖徳太子がなぜ天皇に即位しなかったか、なぜ中大兄が27年間も皇太子のままで即位しなかったかという古代史の大きな謎も神話が理解できればその謎も解けてきます。
また本論は古事記論でもあります。古事記は天武天皇が芸能者を使っての国民教化のために作ったものでその内容は天皇の体験、周りの人間関係、見聞等を基に創作したものでそこには日本書紀には書かれなかった歴史の真実が塗りこめられています。また「古事記」は日本民族の誕生と深い関係があるというのが私の古事記観です。
これらのことは論文として纏め、HPに公開しております。そこでこのようにご案内した次第です。
本論はかなり衝撃的な結論を導き出していますのでそれを支持する、支持しないは読む方にお任せするとしか言いようがありませんがわたしとしてはかなり様々な角度から検証を行ったつもりです。
およそ拙い論文かもしれませんが、自分でこのようなことを言うのもなんですが従来にない数多くの新発見、問題提起があり、古代史、古代文学、天皇制、民族、宗教(特に神道)を考える上で極めて重要な内容であると自負しています。ぜひ一読していただければ幸いです。
古代史を研究するためにはまず「記紀」そのものを研究しなければならないと考えています。
私のHPのアドレスは以下の通りです。
http://www.kojikiden.com
HPの「大国主伝」をクリックしていただきますと論文が出てまいります。
広瀬満 (ちなみにペンネームです。)
敬具
Posted by
広瀬満
at 2008年02月24日 10:25
広瀬さん、はじめまして。なかなか面白い説ですね。
ただ、あまりにも、話が飛躍しすぎていて、あんまり同意できない説ですねw
私は、天武天皇が古事記で隠したかったことは、尾張氏の先祖である天照国照彦火明命のことだと思っています。
なんかそういう、大国主は天武天皇の神格化だとか、そういう回りくどい創作話は信じてません。
まあ、歴史小説でも書くのなら売れるかもしれませんが。
Posted by 邪馬台国総論 at 2008年02月27日 13:50
一アマチュア研究論の読み物として面白く読ませて頂きました。
邪馬台国九州説、畿内説の論で何故に
安本氏をわざわざアマチュア歴史愛好家と見下すのでしょうか? 貴殿達も大いなるアマチュアでは?。同じ穴の狢だと思いますが。
また、考古学の研究を重視する考古学会だが、彼らの90%以上が支持する畿内説という説明。
歴史は民主主義で検証されるのでしょうか?
ばからしい。
アマチュア研究者達は何故科学的な検証をこうも怠るのでしょうか?
天皇家のDNA調査や天皇陵の調査等、宮内庁への働きかけ等、いくらかでもやったことはありますか?
科学的な実証なくして、歴史は語れません。
そもそも私は論争がある事象全てを信じていませんので邪馬台国論争等どうでもいいのですが、
人を貶めてまで、或いは、90%などというくだらない歴史感覚は、歴史をまじめに研究するものたちにとって、邪魔なもの意外のなにものでもないのです。
Posted by タケル at 2008年07月27日 20:00
「平成の黙示録」という表題の私説を公開しています。
http://makoto-ishigaki.spaces.live.com
にアクセスしてください。
Posted by
石垣眞人
at 2008年09月13日 15:42
>タケルさん
歴史学とか考古学とは、人文科学の分野であり、どんなに頑張っても科学では実証できません。あなたは、そのことを理解すべきでしょう。
Posted by 邪馬台国総論 at 2008年10月13日 20:22
古代史を趣味にしている「梨の臣」です。
すっきりしてて良いHPだと思いました。
何か書くところがあると、つい書きたくなるものらしく、読んでいて妄想に駆られて書きますのでお許しを。
ー邪馬壹国は何時頃より存在していたか?
これは容易に結論の出せる問題ではありませんが、私は次の部分に興味を惹かれます。
「其國本亦以男子為王、住七八十年、倭國亂」
ここで言う「其国」とは一体何でしょう。少なくとも卑弥呼に触れる文章であるから、これは「女王國」(もちろん女王は未だ共立される以前ではあるが)のことです。とすると「女王國」は卑弥呼が共立される以前、少なくとも70〜80年以前には成立していたことになります。西暦107年、帥升が朝貢したころには、「女王國」はすでに成立していた。少なくとも卑弥呼が都としていた国は邪馬壹国ですから、女王國は「邪馬壹国」のことですね。
帥升等の朝貢は評価されませんでしたが、私は一歩飛躍して、「漢委奴国王印」を仮授されたのは、神武神話が象徴する「神武」ではなかったかと考えてみました。
一見、トンデモ説のように見えますが、「神武」が北九州に一時期駐留したこと、
九州を空けて近畿に攻め入るための準備として、中国にそれなりの外交をしたことが考えられます。また後世になり、帥升には金印を授けるなどのもてなしをしないのに、卑弥呼のときは、当り前のように金印を授け、大判振る舞いのもてなしをしたことを考慮すると、中国における判定は、過去の歴史の中での皇統の正当性を可としたからに他ならないのではないでしょうか。
あたかも、邪馬壹国=畿内大和の論調になってしまいましたが、邪馬壹国はどこにあるかばかりを考えて、邪馬壹国はいつできたのかに再考を促したら新しい切り口が見つかるかなと思った次第です。
Posted by 梨の臣 at 2008年12月26日 17:34
邪馬台国に最近 興味を持った者です。楽しく拝見させてもらってます。
ひとつだけ ピンと来たものを書きます。
華奴蘇奴國→これは京都の花園と思いますがいかがでしょうか・・・
Posted by 素人 at 2009年01月27日 04:23
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/32580387.html
父は、孝霊天皇の皇女。
母は、倭国香媛。
お父さんが“皇女”というのは何かのまちがいでしょうか?
Posted by 莽翁 寒岩(一笠一蓑一杖) at 2009年03月25日 16:25
>Posted by 莽翁 寒岩(一笠一蓑一杖) at 2009年03月25日 16:25
ご指摘ありがとう。私の間違いです。直しておきました。
>Posted by 素人 at 2009年01月27日 04:23
遅れながら、ご返信します。どうですかね...5世紀の倭王武(雄略天皇)の話だと、古代、倭国は中世よりも二倍くらい国が多くあったみたいですし、後に統廃合で、その国は消えてしまったんでしょうね。
Posted by 邪馬台国総論 at 2009年03月26日 18:37
そもそも、日本書紀や古事記を信用する自体、わかっていない。百済一派である藤原氏が全て改ざんしている。
Posted by かず at 2009年06月28日 05:33
はじめまして、向井一雄と申します。HPを拝見してメール致しました。
少し前にネットを検索していて下記のページを見つけたのですが、問い合わせ先などがなく、どうしたものかと思っていたところ、
http://m.allseek.jp/history/yamatai/06.html
邪馬台国掲示板−2007年08月08日 (水)に「邪馬台国総論」のURLが紹介されており、貴HPに辿り着きました。
上記ページは邪馬台国総論様(ひみこ)が作成されたものでしょうか?
それはともかく、「狗奴国は許乃國(山城の宇治)」という御説に最初は驚き、途中納得しつつも検証し、最終的に、狗奴国を山城南部〜淀川水系と捉えることで邪馬台国問題の一端が解決しそうだという考えに至りました。
「山城の國の風土記に曰はく…本の名は許乃國と曰ひき」 …南山城にはあの椿井大塚山古墳があります。
後に「畿内」と呼ばれる地域は、大和川水系と淀川水系に分かれており、両地域の違いは、弥生式土器文化の違い−簾状文と突帯文まで、さかのぼるものです。
また、庄内式土器には、カワチ系とヤマト系がありますが、いずれにしても大和川水系の土器であり、淀川水系は庄内式土器を持たない−厚甕という伝統的な土器の地域です。
文献史学の研究成果によると、ヤマト政権を構成した氏族は大和川水系−大和と河内の豪族であり、淀川水系の豪族たちは政権の構成メンバーから完全に外されています。
しかし不思議なことに、出現期の古墳は、山城〜北摂津〜北河内と淀川水系に多く分布しています。
先日聴いた東海大の北條芳隆さんの講演会で、「大和川と淀川水系のどちらに依拠するなら、統合的な支配が可能かをめぐる駆け引き」という話がありました。
そう考えると、継体天皇を擁立した勢力が淀川水系と北陸・尾張の地域だったこと、その後の飛鳥〜平城〜平安京への遷都が大和川水系から淀川水系への交通軸のシフトであること、これらは、両地域の真の意味での合併・統一を意味するものだったのではないかと…
こんなことまで妄想しております。
「狗奴国は許乃國(山城の宇治)」とする御説はどこかに発表された論文、書籍はございますでしょうか?ご教示いただければ幸いです。
下記のようなブログをやっております。お時間のある時にでも覗いてみてください。
「銅鐸通信」
http://doutaku.cocolog-nifty.com/blog/
Posted by
向井一雄
at 2009年10月08日 17:27
向井さん、はじめまして。
レスが遅れて、すいません。
いろいろ私事で忙しくて、実はこのサイトをあまりチェックしてなかったので、レスが遅れました。
邪馬台国の話題といっても、ネタ切れの感もあって、サイトの更新もどうしても止まってしまいます。
といっても、まだ全くネタがないわけではないのですが...今は自分の仕事が忙しくて、このサイトどころではなくて...
狗奴国王の正体が、武埴安彦命だという説は、ずっと前に、青木慶一さんが発表されていると思います。
Posted by 邪馬台国総論 at 2009年11月23日 08:30
邪馬台国総論(ひみこ)様
向井です。
>レスが遅れて、すいません。
>
レスも更新もないようでしたので、貴HPは、もう止めてしまわれたのかと思っていました…今日ふと覗いてみたら、ご返事見つけて…お忙しいのに、ありがとうございます。
>邪馬台国の話題といっても、ネタ切れの感もあって、サイトの更新もどうしても止まってしまいます。といっても、まだ全くネタがないわけではないのですが...今は自分の仕事が忙しくて、このサイトどころではなくて...
>
5月の箸墓炭素年代、先日の纒向遺跡の大型建物など…mixiの邪馬台国コミュ二ティで議論しております。まだmixi会員でなければ、招待状をお送りしますので、私のブログのメールアドレスへご連絡ください(プロフィール参照)。お忙しそうですが、ご連絡お待ちしております。
>狗奴国王の正体が、武埴安彦命だという説は、ずっと前に、青木慶一さんが発表されていると思います。
>
青木慶一著 『邪馬台の美姫』 毎日新聞社, 1972年…この本ですね、ご教示ありがとうございます。最近見たのですが、1974年作品の篠田正浩監督−映画「卑弥呼」でも狗奴国王=武埴安彦説をとっていますね、青木さんの著書が元ネタなのでしょうか?
Posted by 向井一雄 at 2009年11月25日 17:59
向井さん。
私が武埴安彦命について注目したのは、青木さんとは関係ないです。青木さんが、武埴安彦命について言及していることについては、今年ぐらいになって、たまたま、趣味で古代史関係のサイトをネットサーフィンしていて、気がつきました。なんと、私が生まれる前に、そういう説を発表していたということに驚きました。
私が武埴安彦命に注目した理由は、記紀に書いてあることを年代以外は、ほぼ素直に信じた結果にすぎません。箸墓古墳が卑弥呼の墓ならば...そこから、魏志倭人伝や記紀の記述を単純に照らし合わせて、解釈しただけです。
私は、考古学というのは、歴史を推測する重要な脇役になっても、歴史を解釈する主役にはなれないと思います。土器などの遺物だけでは、歴史という社会的な現象を描くことは、ほとんど不可能だと思います。
たとえば、三河出身の徳川家康が、京都在住の天皇によって征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いたことなど、文字資料でしか推測できません。文字以外の遺物では、それを推測することは絶対に不可能です。
それと、
mixiへのお誘い、ありがとうございます。
私、mixiに入っていません。
よって、未だにmixiのシステムが分かりません。
mixiにはフリーメールで登録できないということですが...個人情報とか、どうなんでしょうか?
Posted by 邪馬台国総論 at 2009年12月02日 21:39
邪馬台国総論(ひみこ)様
向井です。
>私が武埴安彦命について注目したのは、青木さんとは関係ないです…なんと、私が生まれる前に、そういう説を発表していたということに驚きました。
>
私の知る限り、最近、武埴安彦命を椿井大塚山などと関連させて論じているのは、森浩一先生や佐古和枝さんですね〜森浩一著『記紀の考古学』(朝日文庫)
「記紀に書いてあることを年代以外は、ほぼ素直に信じた結果にすぎません。箸墓古墳が卑弥呼の墓ならば...そこから、魏志倭人伝や記紀の記述を単純に照らし合わせて、解釈しただけです」…ここは意外と盲点だったかもしれません。狗奴国は邪馬台国の南という固定観念が木津川流域や淀川流域から目を逸らせていることは事実です。
>私は、考古学というのは、歴史を推測する重要な脇役になっても、歴史を解釈する主役にはなれないと思います。土器などの遺物だけでは、歴史という社会的な現象を描くことは、ほとんど不可能だと思います。
>
「遺物だけでは、歴史という社会的な現象を描くことは、ほとんど不可能だと思います」…考古資料の限界というヤツですね。元々資料の性格上、考古資料と史料が一致する方が変なんです。
mixiの邪馬台国コミュでも議論になったのですが、史料(歴史記録)が、映画やドラマだとすると、考古学はドキュメンタリーだと…また事実は一つだとしても真実は複数ある…と思います。この場合の真実とは複数の歴史記録のことを指すのですが、「邪馬台国」や「倭人伝」についてはウラをとるにもこの歴史記録が複数存在していないことがまずは問題ですからね〜
「土器などの遺物」…土器という遺物は青銅器や古墳などとまた違った意味付けを引き出すことが可能な遺物でして…「交易」といった人々の動きを押さえるといった、文献史料では不得意な(記録に残りにくい)局面の復元には結構有効だったりします。考古学はモノをして語らしめる学問ですが、モノに語らせるためには、「歴史」や「人間」を知らねばなりません…しかしそういった考古学の周辺情報を知らない(知ろうとしない)で自分勝手に考古資料を解釈する考古学者が多すぎるんです。
>三河出身の徳川家康が、京都在住の天皇によって征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いたことなど、文字資料でしか推測できません。
>
おっしゃる通りですね〜鎌倉幕府の成立なんて考古学的にはとうてい説明することは難しそうです。逆に狗奴国=濃尾平野説なんていうのは考古資料の限界を超えた解釈になっていて、西国VS東国論として議論すべき対象を見誤っている可能性が大です。
Posted by 向井一雄 at 2009年12月07日 17:34
(上のつづきです)
>未だにmixiのシステムが分かりません。
>mixiにはフリーメールで登録できないということですが...個人情報とか、どうなんでしょうか?
>
「mixiのシステムが分かりません」…SNSの中では老舗ですし、登録会員も500万とか言われていて、何かスゴいネットワークのようですが、実態は単なる会員制のブログ(日記)+掲示板みたいなものです。2ちゃんなどと一番異なる点は、誰でもアクセスできない点だけでしょう。
会員からの招待状がないと登録できないようになっています。“一見さんお断りシステム”といいますか、知ってる人が紹介してきた人だから、変な人(問題を引き起こすような)ではないだろう=安心しておしゃべりできると…こういった掲示板システムなんです。日記の方は全く使っていない人も多いですから、義務じゃありません。私も最近ほとんど更新してません。
「個人情報とか、どうなんでしょうか?」…登録時に個人情報(実名や電話番号、住所など)を詳細に記入する必要はありません。当初は実名登録など規制があったようですが、現在mixi内でのやり取りは全てHNでOKです。最終的に仲の良い友人になると(これをマイミクと呼びますが)、メッセージのやり取りやオフ会などでリアルなお付き合いをしている方々もいます。元々mixiはリアルな友達をネットに誘って友達の輪を広げようというのがコンセプトだったのでしょうが…
「フリーメールで登録できない」…これはよくわかりません。というのも、私もyahooメールで登録しています。最近は複数のmixiアカウントを持たせないために、携帯電話のメアドが登録時に必要になったようです(フリーメールが登録できないという情報は、もしかするとこれと関係があるかもしれません)。
登録は簡単ですし、会員制といっても無料ですから(変な宣伝みたいなものも来ません)、騙されたと思って入ってみませんか?確かに登録会員=500万といっても玉石混淆です(レベルもまちまちですし、変な人も結構混じっています)。しかし、通常の研究会活動やオフィシャルなブログやHPなどのネットワークでは出会うことのなさそうな方々との出会いがあるのも事実です。
Posted by 向井一雄 at 2009年12月07日 17:41
向井さん、mixiの件のメールをたった今、出しました。
Posted by 邪馬台国総論 at 2009年12月13日 15:59
で、mixiの件のレスに続き...
考古学という学問は、文献資料だけでは限界があることを推測するのに、非常に大きな助けになりますね。
ただ、文献資料を無視して、考古学だけで歴史を推測しようとすると、高い確率で見当違いになる可能性が高いです。
たとえば、鎌倉時代、日本の二大都市はどこだったかというと、天皇のいる京都と、国際貿易港のある博多でした。この時代に文献が存在しなかったら、それこそ、京都を中心とした近畿王朝と、博多を中心とした九州王朝が存在していたと考えたくなります。また。外国からの新しい文化を文明の強弱と認識するのなら、九州のほうが強かったと解釈したくなります。
が、文献的には違いますね。なんと、当時の日本を支配していたのは、博多や京都から更に東の果ての鎌倉に本拠を構えていた鎌倉幕府でした。しかも、この政権では、京都の天皇に権威付けしてもらっていたり、そのくせして、京都や九州にも、鎌倉幕府の地方監督機関を置いて強い監視していたり、考古学的資料では、想像もつかない歴史があったわけです。
よって、よく九州論者がよくいう「鉄が多く出土するから、そこが強い」とか。「外国文化が入ってくるから、そこが強い」とか、そういう解釈は間違いの可能性が高いです。
外国の例をみても、ヒッタイトは鉄をもってしても、エジプトを征服することは不可能でしたし、朝鮮半島の伽耶は、鉄が多く出土しましたが、彼らが朝鮮半島を統一したなど聞きませんよねw
Posted by 邪馬台国総論 at 2009年12月13日 16:48
mixiにいざ加入しようにも、携帯のメールアドレスが必要とのこと。
携帯のメールアドレス設定していないので、時間がかかりそうで。
ソフトバンクの家族割り当てなんだけど、ちょっと契約時の暗証番号がわからないので、携帯メールアドレスの設定に四苦八苦。
今月はいろいろ忙しかったです。仕事も忙しいんだけど、祖母の容体が悪化し、いろいろ大変でした。
でまあ、向井さんが「?」されていると思うので、一応、ここ御報告。そういうことです。
Posted by 邪馬台国総論 at 2009年12月16日 20:38
はじめまして。貴HPを非常に興味深く拝見させていただきました。単なる一歴史ファンに過ぎませんが、上古音/中古音について下名自身確認・勉強してみたいと思いました。貴HPで引用されている音の出典(辞書などの元文献)について教示頂ければ幸いです。簡単に手に入るものなのでしょうか? 素人質問で恐縮ですが、宜しくお願い申し上げます。
Posted by 水谷 敏行 at 2010年02月03日 09:37
水谷さん、はじめまして。通りすがりの者ですが...
このサイトの管理人さんは、めったに更新されてない方なので、なかなか待っていても返事がないと思うので、私が代わりに答えますが...
上古音、中古音などは、普通の漢和辞典には、掲載されていると思います。
Posted by 通りすがり at 2010年02月04日 23:08
はじめまして^^。
彌永圭介と申します。素敵なサイトですね^^。
日々、高次元からのチャネリングによって、
古代に関する情報を得ております。
もしよろしければ、
下記のブログをご参照頂ければ、
幸いに損じます^^。
よろしくお願い申し上げます。
http://ameblo.jp/gaialight888/
Posted by
彌永圭介
at 2010年05月30日 19:50
初めまして。私は、白虎司馬の本家の、2男で、50才チョイになります。
邪馬台国は時代的に、AD200年代、阿蘇山が神話に出てくるそうで、九州くさいですが、畿内説の出てきた要因を考えたことがあります。
有史以前ですから、伝説でしかありませんが、、
卑弥呼さん家〜魏くん家が、共謀して、岡山の吉備津神社〜加野(岡山市街)に、日本の最初の皇帝(崇神天皇)を招いた。その後、魏の将軍と白魏の姫の王子を、乎智族と称し、福井の白山姫神社に、越智族と名をかえ、加茂>加賀の守りをさせた。
ということで、畿内というところには寄っておらず、畿内に入ったののではなく、倭の国が置いた新規の王族が、機内をすり抜けたという説が、私の説です。
Posted by
古谷 治
at 2011年01月21日 19:41
なお、越智族の本家の王子くんは、Oh-WonBinくんと言って、身長180cm体重60kgチョイのかわいい感じの男の子で、今20才です。
私の故伯父が、最近の自家の分家(AD1600)の故朴照爺が大宇-Grを作るときに、仁川市に戻しました。
親父くんの職業は?ですが、大宇建設の経営者くさいです。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101105-00000016-wow-ent.view-000
Posted by
古谷 治
at 2011年01月21日 20:00
歴史研究の面で、故祖父から、聞いた伝説を追加でお送りします。
畿内に入ったのは、加茂族(朱雀;大和)、乎智族と、うち=出雲族(白虎);推古天皇の頃だけ、止む無く天皇をやった。
聖徳大使という人は実在したような気はしない。当時は海洋交易が多くなり、攻められないように、すごく賢い王子がいるふりをしたのだろう。そんなに賢い王子が居たら、私なら、大事にして、外国には出さなかったと、俺は思うよ。
これは、私の視点ですが、天照神は、出雲(白虎)の菩提神社の系統ですが、当時は、まだ、国の交流的に、出雲(晋)は、魏〜李(青龍)、白魏、古志;中国本土〜朝鮮半島、富山としか交流がなく、倭の国とは交流をしていません。
天照神は、唯一女王を持ち、加茂族、乎智族の母系であった、白魏の女王と考えるのが普通だと思います。参考まで。
Posted by
古谷 治
at 2011年01月22日 19:41
「魏志」に出て来る国名で場所の比定にほぼ異議のないものは集中して存在してるのに、それ以外の位置情報が皆無な国々は西日本全体に広く分布させてるのは不自然な解釈ではありませんか。
女王に従っている約三十ヶ国は十分北部九州に収まると見るのが自然でしょ。
そして、畿内説に不利な点も当然あります。
畿内のどこかの古墳で魏の金印が発見されたとしてもそれが九州由来のものでないとの証明が不可能だということです。
逆に九州のどこかで発見されたらわざわざそこに持って来る意味がないわけだから「女王は九州にいた」でまず決まりでしょう。
論理的にほぼ唯一の決定的な物証である金印が畿内説では証拠能力を持たない。
さて「記紀」では大倭(後には「大和」)と記して「やまと」と読むわけですが、日本語ではこう書いて「やまと」と読むことはありませんね。
「大倭」表記は明らかに「魏志」に引き摺られたものでしょう。
「倭」と書いて「やまと」と読む。
一般に「邪馬台=やまと」と解釈されてるのですから、何のことはない「倭=邪馬台」ですよ。
要するに魏側が「倭」と呼んでいたものは当事者に「やまと」と読まれていたのではないか。
やがて列島統一の過程で瀬戸内も山陰も北陸も畿内も悉く「やまと」と呼ばれるようになり、統一政権の中心と看做された地域が特別に「大倭(やまと)」と呼称されるようになったのでは?
で「魏志」に記されてる行程を読む限り使者が到達したのは九州北部のどこかとしか考えられない。
名称が列記されてる諸国は問題にならない小国だったのではないのか?
「12000余里」「陸行一月水行十日」「七万余戸」は全て「全体としての『やまと』」と「女王国」を「倭国」「邪馬台国」と混同されたものだと考えてます。
幾つかの報告書を整理し史書としての体裁を整える過程で実情を知らない史官(陳寿ら)が継ぎ接ぎしたのが「倭人条」なのでは?
文書を読む限り女王がいたのは恐らく「奴国」でしょう。
後漢の金印が博多湾岸(志賀島)で発見されたからといって奴国の版図がいつまでも(或いは当時から)そこにあったと断定は出来ない。
魏の時代には逆に内陸に勢力を拡大し、今の大宰府を拠点に筑紫平野をも押さえていたのではないかと個人的には見ています。
その解釈だけが文献上の矛盾や不備を説明可能である、と。
因みに「倭国」「邪馬台国」「女王国」の混同については孫栄健氏がとっくに指摘してたのですが。
今一度触れますが、畿内説では「出土品からも文献からも魏の使者が到達した女王国が『そこ』であると証明することは論理的に不可能」です。
畿内説はハッキリ言って穴だらけですよ。
Posted by 毛人 at 2011年04月15日 02:17
初めまして。興味があったので、投稿します。
私は、考古学や歴史学の研究に携わった事もない、単なるど素人です(ちなみに、九州人です)。よって、私の見解は意見にならないと思いますが、私は九州説・東遷説を採っています。
なぜなら、
その一、福岡県筑後地方にある岩戸山古墳が、筑紫君磐井の墓ではなく、卑弥呼の墓だと考えます。なぜなら、朝廷に逆らった者の古墳の建造を許すとは考えにくい。また、古事記の天磐戸伝説と同じ発音だからです。(岩戸=磐戸)
その二、近畿地方から北部九州まで支配化できているなら、狗奴国に普通に戦争勝てるでしょ。
(例、豊臣軍vs島津軍)
従って、私見ですが、次のように思います。
1、耶馬台国は、一国邑(村)でわなく30余国の連合体
としての名称(首都は奴国)
2、卑弥呼死後、狗奴国(熊本)は戦争継続の大義名分 を失い(王位継承問題)、卑弥弓呼死後、 耶馬台国連合に加盟(孫権死後、後ろ盾の呉が滅亡しそうな為)。その後、神武東征開始。
3、ニギハヤヒが神武に近畿支配権禅譲。その功績を称え二代目天照大神台与より、神権授与され朝廷開始
4、神武が神権授与即後、高齢の為、末子の崇神に譲位
(当時は末子相続が常識だった)その後、出雲・尾張・越前平定
注、卑弥弓呼は卑弥呼の親戚の為、卑弥呼共立に反対した。神武は狗奴国の王位を継承し、耶馬台国連合の軍事統制権を台与より、大夫難升米の台頭を牽制する為、授与された。また、欠史八代説を元に、神武の子息八人におくり名として天皇号を付けたと考える。箸墓古墳は台与の墓だと推定し、生まれた国の宇佐八幡宮に分骨したと考える。神武・崇神の親子二代による東征に及んだ為、名前(ハツクニスメラミコト)が同じになったと考える。
この方が自然な流れだと考えますが、皆さんどうでしょう?
Posted by 素人 at 2011年09月11日 06:52
天皇家の話を持ち出すと、記紀に於ける崇神天皇の時代の記述が非常に神話掛かっている(古色蒼然としている)ように見えます。
で、気になるのはニギハヤヒノミコトが物部氏の祖先だとされてることです。
物部氏と関わりの深い石上社が崇神天皇の時期に登場してることを合わせて考えると「物部系大王」というものが奈良盆地にあったのでは、と。
神武東征の説話は応神天皇の畿内征服と実は似ている。
神武の妻は三嶋の製鉄関係者であろうことは名前から推定出来ますが、応神の母親神功皇后も製鉄に関わる豪族の産まれである。
つまり物部系の王朝が九州方面からの勢力にとって代わられた経緯が分割されて伝承されていたのではないだろうか。
小碓命(日本武尊)、景行天皇、仲哀天皇と何代にも亘って九州を征服するための軍事行動を起こすのは九州系王朝には不可解な行為です。
九州と畿内の勢力に大規模な相克があったことは恐らく確かでしょう。
詳細は尚検討が必要でしょうが。
Posted by 毛人 at 2011年09月14日 02:07
毛人さんへ
ご指摘ありがとうございます。大変参考になりました。
毛人さんの仰る通り、私も九州勢力と機内勢力との間で何世代にも亘り、大きな諍いがあったと考えます。恐らく、海上交易の利権をめぐるものかと。
さて、「小碓命(日本武尊)、景行天皇、仲哀天皇と何代にも亘って九州を征服するための軍事行動を起こすのは九州系王朝には不可解な行為です」との事ですが、私見として補足説明します。
まず、九州人は一つに纏るのが不得手です。(例、大友軍vs島津軍vs竜造寺軍)また、関東の経済人が九州に来て思ったのが、「九州は一つと思っていたが、実際は一つ一つだね。」と驚いていました。従って、狗奴国が耶馬台国連盟に反発した気持ちも理解できます。(現在、道州制で九州の州都を特に福岡と熊本で本気で争ってます)
次に、九州で生まれ育った私にも不思議ですが、九州人は、普段情に厚いのですが、ないがしろにすると、世代・親戚に関係なく何故か怒り出します。わたしも理屈抜きで稀にあり不思議です。(例、磐井の乱、元寇の戦後処理、明治初期の士族の反乱)
従って、同族の九州系王朝(畿内政府)に対しても些細な事で反発したのではないでしょうか?(なんとなく理解できる)
となると、倭国大乱も九州内で起きた可能性が高いと考えます。(現在でも九州内の各地域で風習が全く異なります。)
さらに、神武東征のスタート地点ですが、福岡市の西のはずれに小戸という地名があります(現在ヨットハーバーです)。これは、記・紀に出てくる「筑紫の日向の音戸」だと睨んでいます。
従って、倭の領土は九州だと考えます。
皆さんは、どう思いますか?
Posted by 素人 at 2011年09月22日 23:11
初めまして、邪馬台国掲示板で名前を知りました。邪馬台国掲示板は、下品ですね。
魏志倭人伝の内容をそのまま、図像化してみました。この図を見ると、邪馬台国は九州や大和ではなく、長野であることが判ります。
地動説(地形移動説・地名変動説)から考えて、朝鮮半島から、北九州の間の距離はほとんど変動しないことで、一里は約50mであることが判ります。
投馬國へは、南へ水行20日、邪馬台国へは、南へ水行10日陸行1と月です。
同じ南に進むのであれば、その旨が記載されているべきですが、記載されていないのは、別ルートと考えるべきです。
よって、投馬國へは、九州の西側から南下し、大村湾〜諫早水道(この当時は多良岳の火山活動で、長崎半島は北九州とつながっていなかった)〜有明海〜島原湾〜八代海〜熊本南部と鹿児島の間の、まだ九州がつながっていなかった中央構造線の水道を通って行ったとしました。
投馬國はどこかと言うと、多分、相馬あるいは、伊豆半島(本州とまだ陸続きになっていない)のどちらかでしょう。
一方、邪馬台国は、東ルートを通り、能登半島の気多神社(大社)辺りが上陸地点であると考えます。
後は、陸路、富山の気多神社〜飛騨・高山〜安房峠〜松本〜長野〜戸隠で、女王の住む都に到達します。
ちなみに、古事記の八俣の大蛇退治の八雲とは、日本アルプスの北から、白馬岳、五竜岳、鹿島槍ケ岳、鷲尾岳、槍ヶ岳、常念岳、穂高岳、焼岳(乗鞍岳、御嶽山も含まれる?)で、これらの火山活動で立ち上がる噴煙を、八雲立つと表現したとするのが真っ当な考えです。
同じく、稲羽の素菟は、伊豆半島が南海上から北上し、今の位置にくっついた時の様子を表しています。淤岐の島は、隠岐の島ではなく、止まっているように見える島と言う意味で、ゆっくり北上していることです。
つまり、古事記の八俣の大蛇退治と稲羽の素菟は、本州の西日本と東日本(水蛭子)と伊豆半島が合体する様子を表していることです。
また、この混乱に乗じて、戦乱が起こったのも確かで、魏志倭人伝では、倭国大乱と表現しています。
結論は、古事記と魏志倭人伝の内容に間違いがないと考えます。
Posted by 時の旅人 at 2011年11月11日 14:18
邪馬台国の所在地(諸国の国名から推定)で、斯馬國(志摩国)で始まって、奴国(福岡県)の推定地名で、地名があちらこちらに飛んでいます。特に、関東、東北に推定値とすることは、いかがなものでしょうか。
魏志倭人伝では、女王国の北(現在の地形では西)に向かった方向に順番に記載されています。
斯馬國は長野県の諏訪で、伊那國は長野県の伊那でしょう。残念ながら、已百支國は、この近くですが判りません。
以下、順に北(西)方向に国名を記載しています。
当然のごとく、遠くの国名は把握しきれていないため、省略されていて当然です。
最後の奴國(福岡県)は、東南至奴國百里の奴國と同じで、女王國の領地の最北端(最西端)の国で、帯方郡から奴國までの距離・萬二千餘里(一里50m)にほぼ合致します。
266年に臺與(壹與)が晋に遣使を出した後、413年まで晋に朝貢していないのは、内戦のせいばかりではなく、地殻変動による大地震が続発したのが、原因と考えるのが順当でしょう。
Posted by 時の旅人 at 2011年11月11日 18:18
もっと欲しいにゃん♪(ノ゚Д゚)ノシ☆
http://ktjg.net/index.html
Posted by
名無し
at 2011年12月11日 09:20
べっ、べつにアンタのために教えるんじゃないからね!(人・ω・)☆ ttp://ktjg.net/
Posted by
ぷぅにゃん
at 2011年12月11日 09:21
べっ、べつにあんたなんかに興味は無いんだからね!(人・ω・)★
http://gffz.biz/
Posted by age at 2011年12月11日 09:21
何でもする。舐めてあげるし。入れてあげる。d(´∀`*)グッ♪ ktjg.net/
Posted by
ぷぅにゃん
at 2011年12月11日 09:21
「狗奴国は許乃國(山城の宇治)を拝読しました。できれば、奈良の古代文化研究会編、青垣出版発行の「奈良の古代文化」シリーズの「論考 邪馬台国&ヤマト王権」に収載させていただければと思います。連絡をお待ちしています。
「奈良の古代文化」編集長 鶴井忠義
wanokuni@nifty.com
Posted by 「奈良の古代文化」編集長 at 2012年05月22日 16:41
一読させてもらいました。魏志倭人伝のことがよくわかって非常に興味深く読ませてもらいました。
ただ個人的にはいつも気になるのは、東夷伝の冒頭に、「遠く離れた僻地のことは、度々何ヵ国語にも翻訳され、しかも時代を経て到達してきたものであり、実地踏査していないので良く分かりません」と編者の陳寿が明記していることです。
魏志倭人伝の中身を一語一句精査し、それをベースに邪馬台国の位置を推論しても無駄ではないかと思えてしまうのです。
別のアプローチもあってもよさそうに思うのですが。。。
倭という国?、連合体があったのは確かとして、多くの中国や朝鮮の文献から倭のエリアを特定し、その中心国を割り出していく、とかいった手法です。
Posted by at 2012年11月14日 17:54
よく変な人がいるので
信用されないと思いますが
私は本当に卑弥呼の生まれ変わりです
主人はその双子の弟の生まれ変わりで
背中にまりあとあざがあります
私は元々タイムトリッパーで
彼女の姿やその時の状況などを見ています
一つだけいえば
狗叉国は高知と熊本を地つなぎの時にあった所で
卑弥呼が死ぬ時に中国、四国に分かれたのです
又
幾内説の卑弥呼と倭人伝の卑弥呼は別人です
倭人伝のは九州の人で弟が2人
幾内の卑弥呼は兄が6人
同じ時代にいただけで同じシヤーマンでも別人です
参考になれば幸いです。
Posted by まりあ at 2013年01月07日 18:26
色んな論がありますね、ひとえに日本に古来から文字さえあり、ちゃんと記録していてくれたら解決なのですが、(古代ユダヤ人=日本人説は大間違い)、日本書紀 古事記の 記録は大まかには今の畿内での話でしょうね、かたや 倭国といった場合 畿内に限定されず 大陸との玄関口の話が中心なのでしょう、ということで、邪馬台国は、、となると畿内と九州に二つあった、というのはどうでしょう、
Posted by 社家 at 2014年01月29日 00:06
ずっと気になっていたのですが、鉄器や前漢鏡・後漢鏡、舶来品に乏しい纏向遺跡を邪馬壱国に比定することは可能なんですか?何だか無理があるんじゃない?箸墓古墳を卑弥呼や委与の墓であると考えられてるみたいだけど、魏志倭人伝には冡?って書いてあったけど。周溝から馬具や鎧が見つかってましたよね。彼女たちが自ら兵を指揮してたのでしょうか。疑問があって、正直何だか物足りないです。ここが邪馬臺国だというなら、金印や黄金鏡、強いて言うなら鉄鏡が出土しないとね。鉄鏡には子孫繁栄を意味する縁起の良い漢字が書いてあるそうです。魏の曹操が持っていたそうですよ。
Posted by 古代史ファン at 2014年04月21日 00:22
最近コメントがないので、私の邪馬台国論を述べます。私は九州説を取ります。理由は後にのべますが、以前そこまで言って委員会という番組で、皇室の血を引く竹田さんは「あれは嘘つきが言ったことなの」と言ってました。歴史の文献は嘘と真実が入り混じってのがほとんどなのが、歴史の常識ではないでしょうか。
一番なやませるのは「水行10日陸行1月」ではないでしょうか。
邪馬台国の使者が「わが国は首都まで1月も要する大国であり、30国も従えている」嘘を言ったと思います。なぜなら魏と対等に近い立場の持っていくためです、豊臣秀吉の例からして、優れた権力者は、嘘やはったりのうまい人です。秀吉は「もうすぐ信長様が大軍を率いてやってくるぞ」と毛利軍を脅して降伏させ、後に家臣にしてますが、このとき信長は明智光秀に倒されてました。おそらく「ムー大陸」からきたと示唆した(バレてもいいよう固有名詞をださなかった)このように考えると正確な距離と方位をたどれば太平洋の真ん中にくるのもうなづけます。
邪馬台国はこのような「はったり」で周辺国を従わせたのでしょう。だから大国の待遇を受けれたと思います。だから途中まで距離が書かれているのが最後の方は所要日数になったのでしょう。
おそらく魏の使者や周辺国には「ここは前線基地で本国には何十倍もの軍隊がある」と脅したのでしょう。(うそか否か確かめることは当時の人は不可能なこと)。
また九州説にした理由は、推古天皇より前に女性天皇がいないからです。邪馬台国が大和朝廷の流れをくんでいれば、それ以前に女性天皇の記述があるはずです。そして「女性天皇」を認めない人も多いのは、邪馬台国は大和朝廷と無関係と多くの人が思っているからです。
結論 邪馬台国は九州にあった。あの記述は、魏と対等な立場にたち、周辺国を服属させるための「はったり」
Posted by 長屋王 at 2015年06月23日 22:54
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概略一読させて頂きました。
*「邪馬臺國」と言う国名の存在を肯定し「卑彌呼」が固有名詞として扱って居られますネ。
*私は、倭國の中の三十国の国名は、倭人の部族集落の國情説明文言を音写していると認識しています。
「卑彌呼」も職掌名で何人も何代も襲名している、と。
*「魏志倭人伝に出てくる…」との括りですが、其れでしたら「邪馬壹國」でしょう?。
*私は、倭人の弁の当て字音写を近現代日本語読みで読んではいけない、と思っています。即ち、古代倭語復元の語源解明からでなければ、謎は解けないと思っています。
>*「魏志倭人伝に出てくる…」との括りですが、其れでしたら「邪馬壹國」でしょう?。
とのことですが、「魏志倭人伝に出てくる…」という箇所は削除しておきました。魏志倭人伝に出てくるというよりも、「邪馬壹國」「邪馬臺國」などを全般的に考察するサイトというほうが正しいですね。
今後も、色々な御意見を参考にして、適度に修正していきますので、よろしくお願いします。
福島さん、「卑彌呼」が職業名というのは同意ですが、基本的に中国史書に記載されている「卑彌呼」は特定の個人を表していると思います。何故なら、次の女王が「卑彌呼」とは異なる名前で出てくるからです。
※『後漢書』に登場の「卑彌呼」と『三国志(魏志倭人伝)』に登場の「卑彌呼」は別人と言う意味です。
*其れから、『三国志(魏志倭人伝)』に登場の「壹與」は「卑彌呼」職に即位するに当たり塞曹掾史張政の後見があった為に固有名詞が記載された、と。即ち、わが国のトップの固有名詞は壹與以外は中国正史に登場していない、と。
現・天皇家にもその伝統を受け継いでいて、苗字「氏・姓」がありませんし…。
『魏志倭人伝』に示されている事だけ、取り上げた、邪馬台国と皆さんなっているように、見受け
られます。
地政学的見地からみた裏日本地図
邪馬台国の所在地(人口から考察)
邪馬台国の所在地(官名・人名などから推定)
邪馬台国の所在地の推定(諸国の国名から推定)
倭迹迹日百襲媛命とは?
倭国大乱〜女王卑弥呼(百襲姫)誕生
狗奴国との戦い〜卑弥呼の急死
女王・台与(壱与?)は豊鍬入姫命?
卑弥呼以前・倭国王帥升等
卑弥呼以前・倭奴国王
二倍年暦・春耕秋収をはかり年紀となす
魏志(魏書)に出てくる二つの奴国
高地性集落の分布
弥生時代・AMS年代測定法の現状と可能性
全体をふくめ、その内容は『魏志倭人伝』に示されている事だけではないでしょうか?
ここには日本の正史が、
出ていないように、見られますが?
そんなことはないですよ、
日本正史も他の中国史書も取り上げています。
※現地踏査をして、裴世清は「古の邪馬臺は「邪靡堆」だつた」として居る。
*此れは、前史が国名としているが、勘違いで在ったとして正しているのである。即ち、「卑彌呼」の居所説明文言を国名と勘違いしていた、と。
*「國」の文字を外しているし、文字撰びが絶妙である。
・「靡く」=水縄連山(耳納山地)の山容・山態を表している。
東西25kmの山腹は、谷沢が千本の櫛の歯で梳ったさまを呈している。
・「堆」=「うずたかい(小山)」である、と。
※「東高西下」=水縄連山(耳納山地)と筑後川の西流を。
*伊都國の南千五百里に在る。
*投馬國以北と整合する。
*南に狗奴國と接している。
※水縄連山(耳納山地)=筑紫の日向の蘇の高千穂の[木患]触嶽でもある。
*此の山の山頂はノコギリの歯状を呈していて、千の穂が集っている(高千穂)でもある。
それにしてもこのサイト・ブログはたいへん参考になります。
二倍年暦や河内彦、奴国は難波など
ミミと出雲は説得力があります。高地性集落も重要です
地図もいいです。
全く同感です。
私も倭人伝でいう卑弥呼の墓はやまとととびももそひめの箸墓以外にはあり得ないと思います。
今後150メートル(魏の公式記録によると径145メートル)を越す規模の墓が九州で見つかれば九州説に転向してもいいですが、その可能性はたぶんないでしょう。
247年ころが、日本書紀に書いてある崇神天皇10年だと思う。
長年古事記とりわけ大国主神を研究していましたが、近年大国主神は天武天皇の神格化であるという結論に達しました。
例えば身の危険を感じたオオナムヂが木の国に逃げ、そこも危なくなったので根の堅州国に脱出、そこで試練に耐えて力をつけ、根の堅州国を出て八十神の兄弟たちを倒し、葦原中国の王となり国づくりを始めるという神話は身の危険を感じて吉野に出家した大海人皇子が、その後東国に脱出し、近江朝廷を倒した壬申の乱と同形の話となっています。 またオオナムヂの周りの人間関係も大海人皇子の周りの人間関係とじつによく似ています。
これらのことから大海人皇子が天皇に即位したいきさつが大国主の神話として語られていたのではないかと考えたのです。
また大国主神が天武天皇の神格化だとすると出雲大社には天武天皇が大国主神として祀られている事になります。
そう考えますと古事記に大国主神の話がなぜ並々ならぬ分量でいきいきと書かれているのか、奈良時代なぜ出雲に巨大な神殿が建設(神魂神社に716年創建の記録がある)されたのか、「出雲国造神賀詞 」に代表されるようになぜ天皇家は出雲大社に大きな崇敬を寄せていたのかが理解できると思います。
これは徳川将軍家が始祖の家康を東照大権現として日光東照宮に祀り崇拝していたのと同じ理屈です。
また話が長くなりますのでここでは省略しますがスサノオは蘇我馬子の神格化と考えられます。
スサノオの力強く傍若無人な性格は「日本書紀」等からうかがい知れる蘇我馬子そのものです。
スサノオが牛頭天皇、新羅大明神、熊野権現、蔵王権現といった仏教の守り神と同神、または習合されているのもこのためだと考えています。
この2点(大国主神=天武天皇、スサノオ=蘇我馬子)を基点に記紀の研究を進めたところ、神話の解釈が容易になっただけでなく日本古代史は実に意外な姿を見せてくれます。
たとえば大国主神=天武天皇、スサノオ=蘇我馬子の構図がわかれば例の明日香村の高松塚古墳、キトラ古墳が蘇我蝦夷、蘇我入鹿親子の墓であることが容易にわかりますし、さらに重大なことはどうやら皇統は万世一系ではなく推古天皇と舒明天皇の間に断絶があり、天皇家の祖が実は蘇我馬子であるということも神話のその構図の中から浮かび上がってきます。
また聖徳太子がなぜ天皇に即位しなかったか、なぜ中大兄が27年間も皇太子のままで即位しなかったかという古代史の大きな謎も神話が理解できればその謎も解けてきます。
また本論は古事記論でもあります。古事記は天武天皇が芸能者を使っての国民教化のために作ったものでその内容は天皇の体験、周りの人間関係、見聞等を基に創作したものでそこには日本書紀には書かれなかった歴史の真実が塗りこめられています。また「古事記」は日本民族の誕生と深い関係があるというのが私の古事記観です。
これらのことは論文として纏め、HPに公開しております。そこでこのようにご案内した次第です。
本論はかなり衝撃的な結論を導き出していますのでそれを支持する、支持しないは読む方にお任せするとしか言いようがありませんがわたしとしてはかなり様々な角度から検証を行ったつもりです。
およそ拙い論文かもしれませんが、自分でこのようなことを言うのもなんですが従来にない数多くの新発見、問題提起があり、古代史、古代文学、天皇制、民族、宗教(特に神道)を考える上で極めて重要な内容であると自負しています。ぜひ一読していただければ幸いです。
古代史を研究するためにはまず「記紀」そのものを研究しなければならないと考えています。
私のHPのアドレスは以下の通りです。
http://www.kojikiden.com
HPの「大国主伝」をクリックしていただきますと論文が出てまいります。
広瀬満 (ちなみにペンネームです。)
敬具
ただ、あまりにも、話が飛躍しすぎていて、あんまり同意できない説ですねw
私は、天武天皇が古事記で隠したかったことは、尾張氏の先祖である天照国照彦火明命のことだと思っています。
なんかそういう、大国主は天武天皇の神格化だとか、そういう回りくどい創作話は信じてません。
まあ、歴史小説でも書くのなら売れるかもしれませんが。
邪馬台国九州説、畿内説の論で何故に
安本氏をわざわざアマチュア歴史愛好家と見下すのでしょうか? 貴殿達も大いなるアマチュアでは?。同じ穴の狢だと思いますが。
また、考古学の研究を重視する考古学会だが、彼らの90%以上が支持する畿内説という説明。
歴史は民主主義で検証されるのでしょうか?
ばからしい。
アマチュア研究者達は何故科学的な検証をこうも怠るのでしょうか?
天皇家のDNA調査や天皇陵の調査等、宮内庁への働きかけ等、いくらかでもやったことはありますか?
科学的な実証なくして、歴史は語れません。
そもそも私は論争がある事象全てを信じていませんので邪馬台国論争等どうでもいいのですが、
人を貶めてまで、或いは、90%などというくだらない歴史感覚は、歴史をまじめに研究するものたちにとって、邪魔なもの意外のなにものでもないのです。
http://makoto-ishigaki.spaces.live.com にアクセスしてください。
歴史学とか考古学とは、人文科学の分野であり、どんなに頑張っても科学では実証できません。あなたは、そのことを理解すべきでしょう。
すっきりしてて良いHPだと思いました。
何か書くところがあると、つい書きたくなるものらしく、読んでいて妄想に駆られて書きますのでお許しを。
ー邪馬壹国は何時頃より存在していたか?
これは容易に結論の出せる問題ではありませんが、私は次の部分に興味を惹かれます。
「其國本亦以男子為王、住七八十年、倭國亂」
ここで言う「其国」とは一体何でしょう。少なくとも卑弥呼に触れる文章であるから、これは「女王國」(もちろん女王は未だ共立される以前ではあるが)のことです。とすると「女王國」は卑弥呼が共立される以前、少なくとも70〜80年以前には成立していたことになります。西暦107年、帥升が朝貢したころには、「女王國」はすでに成立していた。少なくとも卑弥呼が都としていた国は邪馬壹国ですから、女王國は「邪馬壹国」のことですね。
帥升等の朝貢は評価されませんでしたが、私は一歩飛躍して、「漢委奴国王印」を仮授されたのは、神武神話が象徴する「神武」ではなかったかと考えてみました。
一見、トンデモ説のように見えますが、「神武」が北九州に一時期駐留したこと、
九州を空けて近畿に攻め入るための準備として、中国にそれなりの外交をしたことが考えられます。また後世になり、帥升には金印を授けるなどのもてなしをしないのに、卑弥呼のときは、当り前のように金印を授け、大判振る舞いのもてなしをしたことを考慮すると、中国における判定は、過去の歴史の中での皇統の正当性を可としたからに他ならないのではないでしょうか。
あたかも、邪馬壹国=畿内大和の論調になってしまいましたが、邪馬壹国はどこにあるかばかりを考えて、邪馬壹国はいつできたのかに再考を促したら新しい切り口が見つかるかなと思った次第です。
ひとつだけ ピンと来たものを書きます。
華奴蘇奴國→これは京都の花園と思いますがいかがでしょうか・・・
父は、孝霊天皇の皇女。
母は、倭国香媛。
お父さんが“皇女”というのは何かのまちがいでしょうか?
ご指摘ありがとう。私の間違いです。直しておきました。
>Posted by 素人 at 2009年01月27日 04:23
遅れながら、ご返信します。どうですかね...5世紀の倭王武(雄略天皇)の話だと、古代、倭国は中世よりも二倍くらい国が多くあったみたいですし、後に統廃合で、その国は消えてしまったんでしょうね。
少し前にネットを検索していて下記のページを見つけたのですが、問い合わせ先などがなく、どうしたものかと思っていたところ、
http://m.allseek.jp/history/yamatai/06.html
邪馬台国掲示板−2007年08月08日 (水)に「邪馬台国総論」のURLが紹介されており、貴HPに辿り着きました。
上記ページは邪馬台国総論様(ひみこ)が作成されたものでしょうか?
それはともかく、「狗奴国は許乃國(山城の宇治)」という御説に最初は驚き、途中納得しつつも検証し、最終的に、狗奴国を山城南部〜淀川水系と捉えることで邪馬台国問題の一端が解決しそうだという考えに至りました。
「山城の國の風土記に曰はく…本の名は許乃國と曰ひき」 …南山城にはあの椿井大塚山古墳があります。
後に「畿内」と呼ばれる地域は、大和川水系と淀川水系に分かれており、両地域の違いは、弥生式土器文化の違い−簾状文と突帯文まで、さかのぼるものです。
また、庄内式土器には、カワチ系とヤマト系がありますが、いずれにしても大和川水系の土器であり、淀川水系は庄内式土器を持たない−厚甕という伝統的な土器の地域です。
文献史学の研究成果によると、ヤマト政権を構成した氏族は大和川水系−大和と河内の豪族であり、淀川水系の豪族たちは政権の構成メンバーから完全に外されています。
しかし不思議なことに、出現期の古墳は、山城〜北摂津〜北河内と淀川水系に多く分布しています。
先日聴いた東海大の北條芳隆さんの講演会で、「大和川と淀川水系のどちらに依拠するなら、統合的な支配が可能かをめぐる駆け引き」という話がありました。
そう考えると、継体天皇を擁立した勢力が淀川水系と北陸・尾張の地域だったこと、その後の飛鳥〜平城〜平安京への遷都が大和川水系から淀川水系への交通軸のシフトであること、これらは、両地域の真の意味での合併・統一を意味するものだったのではないかと…
こんなことまで妄想しております。
「狗奴国は許乃國(山城の宇治)」とする御説はどこかに発表された論文、書籍はございますでしょうか?ご教示いただければ幸いです。
下記のようなブログをやっております。お時間のある時にでも覗いてみてください。
「銅鐸通信」
http://doutaku.cocolog-nifty.com/blog/
レスが遅れて、すいません。
いろいろ私事で忙しくて、実はこのサイトをあまりチェックしてなかったので、レスが遅れました。
邪馬台国の話題といっても、ネタ切れの感もあって、サイトの更新もどうしても止まってしまいます。
といっても、まだ全くネタがないわけではないのですが...今は自分の仕事が忙しくて、このサイトどころではなくて...
狗奴国王の正体が、武埴安彦命だという説は、ずっと前に、青木慶一さんが発表されていると思います。
向井です。
>レスが遅れて、すいません。
>
レスも更新もないようでしたので、貴HPは、もう止めてしまわれたのかと思っていました…今日ふと覗いてみたら、ご返事見つけて…お忙しいのに、ありがとうございます。
>邪馬台国の話題といっても、ネタ切れの感もあって、サイトの更新もどうしても止まってしまいます。といっても、まだ全くネタがないわけではないのですが...今は自分の仕事が忙しくて、このサイトどころではなくて...
>
5月の箸墓炭素年代、先日の纒向遺跡の大型建物など…mixiの邪馬台国コミュ二ティで議論しております。まだmixi会員でなければ、招待状をお送りしますので、私のブログのメールアドレスへご連絡ください(プロフィール参照)。お忙しそうですが、ご連絡お待ちしております。
>狗奴国王の正体が、武埴安彦命だという説は、ずっと前に、青木慶一さんが発表されていると思います。
>
青木慶一著 『邪馬台の美姫』 毎日新聞社, 1972年…この本ですね、ご教示ありがとうございます。最近見たのですが、1974年作品の篠田正浩監督−映画「卑弥呼」でも狗奴国王=武埴安彦説をとっていますね、青木さんの著書が元ネタなのでしょうか?
私が武埴安彦命について注目したのは、青木さんとは関係ないです。青木さんが、武埴安彦命について言及していることについては、今年ぐらいになって、たまたま、趣味で古代史関係のサイトをネットサーフィンしていて、気がつきました。なんと、私が生まれる前に、そういう説を発表していたということに驚きました。
私が武埴安彦命に注目した理由は、記紀に書いてあることを年代以外は、ほぼ素直に信じた結果にすぎません。箸墓古墳が卑弥呼の墓ならば...そこから、魏志倭人伝や記紀の記述を単純に照らし合わせて、解釈しただけです。
私は、考古学というのは、歴史を推測する重要な脇役になっても、歴史を解釈する主役にはなれないと思います。土器などの遺物だけでは、歴史という社会的な現象を描くことは、ほとんど不可能だと思います。
たとえば、三河出身の徳川家康が、京都在住の天皇によって征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いたことなど、文字資料でしか推測できません。文字以外の遺物では、それを推測することは絶対に不可能です。
それと、
mixiへのお誘い、ありがとうございます。
私、mixiに入っていません。
よって、未だにmixiのシステムが分かりません。
mixiにはフリーメールで登録できないということですが...個人情報とか、どうなんでしょうか?
向井です。
>私が武埴安彦命について注目したのは、青木さんとは関係ないです…なんと、私が生まれる前に、そういう説を発表していたということに驚きました。
>
私の知る限り、最近、武埴安彦命を椿井大塚山などと関連させて論じているのは、森浩一先生や佐古和枝さんですね〜森浩一著『記紀の考古学』(朝日文庫)
「記紀に書いてあることを年代以外は、ほぼ素直に信じた結果にすぎません。箸墓古墳が卑弥呼の墓ならば...そこから、魏志倭人伝や記紀の記述を単純に照らし合わせて、解釈しただけです」…ここは意外と盲点だったかもしれません。狗奴国は邪馬台国の南という固定観念が木津川流域や淀川流域から目を逸らせていることは事実です。
>私は、考古学というのは、歴史を推測する重要な脇役になっても、歴史を解釈する主役にはなれないと思います。土器などの遺物だけでは、歴史という社会的な現象を描くことは、ほとんど不可能だと思います。
>
「遺物だけでは、歴史という社会的な現象を描くことは、ほとんど不可能だと思います」…考古資料の限界というヤツですね。元々資料の性格上、考古資料と史料が一致する方が変なんです。
mixiの邪馬台国コミュでも議論になったのですが、史料(歴史記録)が、映画やドラマだとすると、考古学はドキュメンタリーだと…また事実は一つだとしても真実は複数ある…と思います。この場合の真実とは複数の歴史記録のことを指すのですが、「邪馬台国」や「倭人伝」についてはウラをとるにもこの歴史記録が複数存在していないことがまずは問題ですからね〜
「土器などの遺物」…土器という遺物は青銅器や古墳などとまた違った意味付けを引き出すことが可能な遺物でして…「交易」といった人々の動きを押さえるといった、文献史料では不得意な(記録に残りにくい)局面の復元には結構有効だったりします。考古学はモノをして語らしめる学問ですが、モノに語らせるためには、「歴史」や「人間」を知らねばなりません…しかしそういった考古学の周辺情報を知らない(知ろうとしない)で自分勝手に考古資料を解釈する考古学者が多すぎるんです。
>三河出身の徳川家康が、京都在住の天皇によって征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いたことなど、文字資料でしか推測できません。
>
おっしゃる通りですね〜鎌倉幕府の成立なんて考古学的にはとうてい説明することは難しそうです。逆に狗奴国=濃尾平野説なんていうのは考古資料の限界を超えた解釈になっていて、西国VS東国論として議論すべき対象を見誤っている可能性が大です。
>未だにmixiのシステムが分かりません。
>mixiにはフリーメールで登録できないということですが...個人情報とか、どうなんでしょうか?
>
「mixiのシステムが分かりません」…SNSの中では老舗ですし、登録会員も500万とか言われていて、何かスゴいネットワークのようですが、実態は単なる会員制のブログ(日記)+掲示板みたいなものです。2ちゃんなどと一番異なる点は、誰でもアクセスできない点だけでしょう。
会員からの招待状がないと登録できないようになっています。“一見さんお断りシステム”といいますか、知ってる人が紹介してきた人だから、変な人(問題を引き起こすような)ではないだろう=安心しておしゃべりできると…こういった掲示板システムなんです。日記の方は全く使っていない人も多いですから、義務じゃありません。私も最近ほとんど更新してません。
「個人情報とか、どうなんでしょうか?」…登録時に個人情報(実名や電話番号、住所など)を詳細に記入する必要はありません。当初は実名登録など規制があったようですが、現在mixi内でのやり取りは全てHNでOKです。最終的に仲の良い友人になると(これをマイミクと呼びますが)、メッセージのやり取りやオフ会などでリアルなお付き合いをしている方々もいます。元々mixiはリアルな友達をネットに誘って友達の輪を広げようというのがコンセプトだったのでしょうが…
「フリーメールで登録できない」…これはよくわかりません。というのも、私もyahooメールで登録しています。最近は複数のmixiアカウントを持たせないために、携帯電話のメアドが登録時に必要になったようです(フリーメールが登録できないという情報は、もしかするとこれと関係があるかもしれません)。
登録は簡単ですし、会員制といっても無料ですから(変な宣伝みたいなものも来ません)、騙されたと思って入ってみませんか?確かに登録会員=500万といっても玉石混淆です(レベルもまちまちですし、変な人も結構混じっています)。しかし、通常の研究会活動やオフィシャルなブログやHPなどのネットワークでは出会うことのなさそうな方々との出会いがあるのも事実です。
考古学という学問は、文献資料だけでは限界があることを推測するのに、非常に大きな助けになりますね。
ただ、文献資料を無視して、考古学だけで歴史を推測しようとすると、高い確率で見当違いになる可能性が高いです。
たとえば、鎌倉時代、日本の二大都市はどこだったかというと、天皇のいる京都と、国際貿易港のある博多でした。この時代に文献が存在しなかったら、それこそ、京都を中心とした近畿王朝と、博多を中心とした九州王朝が存在していたと考えたくなります。また。外国からの新しい文化を文明の強弱と認識するのなら、九州のほうが強かったと解釈したくなります。
が、文献的には違いますね。なんと、当時の日本を支配していたのは、博多や京都から更に東の果ての鎌倉に本拠を構えていた鎌倉幕府でした。しかも、この政権では、京都の天皇に権威付けしてもらっていたり、そのくせして、京都や九州にも、鎌倉幕府の地方監督機関を置いて強い監視していたり、考古学的資料では、想像もつかない歴史があったわけです。
よって、よく九州論者がよくいう「鉄が多く出土するから、そこが強い」とか。「外国文化が入ってくるから、そこが強い」とか、そういう解釈は間違いの可能性が高いです。
外国の例をみても、ヒッタイトは鉄をもってしても、エジプトを征服することは不可能でしたし、朝鮮半島の伽耶は、鉄が多く出土しましたが、彼らが朝鮮半島を統一したなど聞きませんよねw
携帯のメールアドレス設定していないので、時間がかかりそうで。
ソフトバンクの家族割り当てなんだけど、ちょっと契約時の暗証番号がわからないので、携帯メールアドレスの設定に四苦八苦。
今月はいろいろ忙しかったです。仕事も忙しいんだけど、祖母の容体が悪化し、いろいろ大変でした。
でまあ、向井さんが「?」されていると思うので、一応、ここ御報告。そういうことです。
このサイトの管理人さんは、めったに更新されてない方なので、なかなか待っていても返事がないと思うので、私が代わりに答えますが...
上古音、中古音などは、普通の漢和辞典には、掲載されていると思います。
彌永圭介と申します。素敵なサイトですね^^。
日々、高次元からのチャネリングによって、
古代に関する情報を得ております。
もしよろしければ、
下記のブログをご参照頂ければ、
幸いに損じます^^。
よろしくお願い申し上げます。
http://ameblo.jp/gaialight888/
邪馬台国は時代的に、AD200年代、阿蘇山が神話に出てくるそうで、九州くさいですが、畿内説の出てきた要因を考えたことがあります。
有史以前ですから、伝説でしかありませんが、、
卑弥呼さん家〜魏くん家が、共謀して、岡山の吉備津神社〜加野(岡山市街)に、日本の最初の皇帝(崇神天皇)を招いた。その後、魏の将軍と白魏の姫の王子を、乎智族と称し、福井の白山姫神社に、越智族と名をかえ、加茂>加賀の守りをさせた。
ということで、畿内というところには寄っておらず、畿内に入ったののではなく、倭の国が置いた新規の王族が、機内をすり抜けたという説が、私の説です。
私の故伯父が、最近の自家の分家(AD1600)の故朴照爺が大宇-Grを作るときに、仁川市に戻しました。
親父くんの職業は?ですが、大宇建設の経営者くさいです。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101105-00000016-wow-ent.view-000
畿内に入ったのは、加茂族(朱雀;大和)、乎智族と、うち=出雲族(白虎);推古天皇の頃だけ、止む無く天皇をやった。
聖徳大使という人は実在したような気はしない。当時は海洋交易が多くなり、攻められないように、すごく賢い王子がいるふりをしたのだろう。そんなに賢い王子が居たら、私なら、大事にして、外国には出さなかったと、俺は思うよ。
これは、私の視点ですが、天照神は、出雲(白虎)の菩提神社の系統ですが、当時は、まだ、国の交流的に、出雲(晋)は、魏〜李(青龍)、白魏、古志;中国本土〜朝鮮半島、富山としか交流がなく、倭の国とは交流をしていません。
天照神は、唯一女王を持ち、加茂族、乎智族の母系であった、白魏の女王と考えるのが普通だと思います。参考まで。
女王に従っている約三十ヶ国は十分北部九州に収まると見るのが自然でしょ。
そして、畿内説に不利な点も当然あります。
畿内のどこかの古墳で魏の金印が発見されたとしてもそれが九州由来のものでないとの証明が不可能だということです。
逆に九州のどこかで発見されたらわざわざそこに持って来る意味がないわけだから「女王は九州にいた」でまず決まりでしょう。
論理的にほぼ唯一の決定的な物証である金印が畿内説では証拠能力を持たない。
さて「記紀」では大倭(後には「大和」)と記して「やまと」と読むわけですが、日本語ではこう書いて「やまと」と読むことはありませんね。
「大倭」表記は明らかに「魏志」に引き摺られたものでしょう。
「倭」と書いて「やまと」と読む。
一般に「邪馬台=やまと」と解釈されてるのですから、何のことはない「倭=邪馬台」ですよ。
要するに魏側が「倭」と呼んでいたものは当事者に「やまと」と読まれていたのではないか。
やがて列島統一の過程で瀬戸内も山陰も北陸も畿内も悉く「やまと」と呼ばれるようになり、統一政権の中心と看做された地域が特別に「大倭(やまと)」と呼称されるようになったのでは?
で「魏志」に記されてる行程を読む限り使者が到達したのは九州北部のどこかとしか考えられない。
名称が列記されてる諸国は問題にならない小国だったのではないのか?
「12000余里」「陸行一月水行十日」「七万余戸」は全て「全体としての『やまと』」と「女王国」を「倭国」「邪馬台国」と混同されたものだと考えてます。
幾つかの報告書を整理し史書としての体裁を整える過程で実情を知らない史官(陳寿ら)が継ぎ接ぎしたのが「倭人条」なのでは?
文書を読む限り女王がいたのは恐らく「奴国」でしょう。
後漢の金印が博多湾岸(志賀島)で発見されたからといって奴国の版図がいつまでも(或いは当時から)そこにあったと断定は出来ない。
魏の時代には逆に内陸に勢力を拡大し、今の大宰府を拠点に筑紫平野をも押さえていたのではないかと個人的には見ています。
その解釈だけが文献上の矛盾や不備を説明可能である、と。
因みに「倭国」「邪馬台国」「女王国」の混同については孫栄健氏がとっくに指摘してたのですが。
今一度触れますが、畿内説では「出土品からも文献からも魏の使者が到達した女王国が『そこ』であると証明することは論理的に不可能」です。
畿内説はハッキリ言って穴だらけですよ。
私は、考古学や歴史学の研究に携わった事もない、単なるど素人です(ちなみに、九州人です)。よって、私の見解は意見にならないと思いますが、私は九州説・東遷説を採っています。
なぜなら、
その一、福岡県筑後地方にある岩戸山古墳が、筑紫君磐井の墓ではなく、卑弥呼の墓だと考えます。なぜなら、朝廷に逆らった者の古墳の建造を許すとは考えにくい。また、古事記の天磐戸伝説と同じ発音だからです。(岩戸=磐戸)
その二、近畿地方から北部九州まで支配化できているなら、狗奴国に普通に戦争勝てるでしょ。
(例、豊臣軍vs島津軍)
従って、私見ですが、次のように思います。
1、耶馬台国は、一国邑(村)でわなく30余国の連合体
としての名称(首都は奴国)
2、卑弥呼死後、狗奴国(熊本)は戦争継続の大義名分 を失い(王位継承問題)、卑弥弓呼死後、 耶馬台国連合に加盟(孫権死後、後ろ盾の呉が滅亡しそうな為)。その後、神武東征開始。
3、ニギハヤヒが神武に近畿支配権禅譲。その功績を称え二代目天照大神台与より、神権授与され朝廷開始
4、神武が神権授与即後、高齢の為、末子の崇神に譲位
(当時は末子相続が常識だった)その後、出雲・尾張・越前平定
注、卑弥弓呼は卑弥呼の親戚の為、卑弥呼共立に反対した。神武は狗奴国の王位を継承し、耶馬台国連合の軍事統制権を台与より、大夫難升米の台頭を牽制する為、授与された。また、欠史八代説を元に、神武の子息八人におくり名として天皇号を付けたと考える。箸墓古墳は台与の墓だと推定し、生まれた国の宇佐八幡宮に分骨したと考える。神武・崇神の親子二代による東征に及んだ為、名前(ハツクニスメラミコト)が同じになったと考える。
この方が自然な流れだと考えますが、皆さんどうでしょう?
で、気になるのはニギハヤヒノミコトが物部氏の祖先だとされてることです。
物部氏と関わりの深い石上社が崇神天皇の時期に登場してることを合わせて考えると「物部系大王」というものが奈良盆地にあったのでは、と。
神武東征の説話は応神天皇の畿内征服と実は似ている。
神武の妻は三嶋の製鉄関係者であろうことは名前から推定出来ますが、応神の母親神功皇后も製鉄に関わる豪族の産まれである。
つまり物部系の王朝が九州方面からの勢力にとって代わられた経緯が分割されて伝承されていたのではないだろうか。
小碓命(日本武尊)、景行天皇、仲哀天皇と何代にも亘って九州を征服するための軍事行動を起こすのは九州系王朝には不可解な行為です。
九州と畿内の勢力に大規模な相克があったことは恐らく確かでしょう。
詳細は尚検討が必要でしょうが。
ご指摘ありがとうございます。大変参考になりました。
毛人さんの仰る通り、私も九州勢力と機内勢力との間で何世代にも亘り、大きな諍いがあったと考えます。恐らく、海上交易の利権をめぐるものかと。
さて、「小碓命(日本武尊)、景行天皇、仲哀天皇と何代にも亘って九州を征服するための軍事行動を起こすのは九州系王朝には不可解な行為です」との事ですが、私見として補足説明します。
まず、九州人は一つに纏るのが不得手です。(例、大友軍vs島津軍vs竜造寺軍)また、関東の経済人が九州に来て思ったのが、「九州は一つと思っていたが、実際は一つ一つだね。」と驚いていました。従って、狗奴国が耶馬台国連盟に反発した気持ちも理解できます。(現在、道州制で九州の州都を特に福岡と熊本で本気で争ってます)
次に、九州で生まれ育った私にも不思議ですが、九州人は、普段情に厚いのですが、ないがしろにすると、世代・親戚に関係なく何故か怒り出します。わたしも理屈抜きで稀にあり不思議です。(例、磐井の乱、元寇の戦後処理、明治初期の士族の反乱)
従って、同族の九州系王朝(畿内政府)に対しても些細な事で反発したのではないでしょうか?(なんとなく理解できる)
となると、倭国大乱も九州内で起きた可能性が高いと考えます。(現在でも九州内の各地域で風習が全く異なります。)
さらに、神武東征のスタート地点ですが、福岡市の西のはずれに小戸という地名があります(現在ヨットハーバーです)。これは、記・紀に出てくる「筑紫の日向の音戸」だと睨んでいます。
従って、倭の領土は九州だと考えます。
皆さんは、どう思いますか?
魏志倭人伝の内容をそのまま、図像化してみました。この図を見ると、邪馬台国は九州や大和ではなく、長野であることが判ります。
地動説(地形移動説・地名変動説)から考えて、朝鮮半島から、北九州の間の距離はほとんど変動しないことで、一里は約50mであることが判ります。
投馬國へは、南へ水行20日、邪馬台国へは、南へ水行10日陸行1と月です。
同じ南に進むのであれば、その旨が記載されているべきですが、記載されていないのは、別ルートと考えるべきです。
よって、投馬國へは、九州の西側から南下し、大村湾〜諫早水道(この当時は多良岳の火山活動で、長崎半島は北九州とつながっていなかった)〜有明海〜島原湾〜八代海〜熊本南部と鹿児島の間の、まだ九州がつながっていなかった中央構造線の水道を通って行ったとしました。
投馬國はどこかと言うと、多分、相馬あるいは、伊豆半島(本州とまだ陸続きになっていない)のどちらかでしょう。
一方、邪馬台国は、東ルートを通り、能登半島の気多神社(大社)辺りが上陸地点であると考えます。
後は、陸路、富山の気多神社〜飛騨・高山〜安房峠〜松本〜長野〜戸隠で、女王の住む都に到達します。
ちなみに、古事記の八俣の大蛇退治の八雲とは、日本アルプスの北から、白馬岳、五竜岳、鹿島槍ケ岳、鷲尾岳、槍ヶ岳、常念岳、穂高岳、焼岳(乗鞍岳、御嶽山も含まれる?)で、これらの火山活動で立ち上がる噴煙を、八雲立つと表現したとするのが真っ当な考えです。
同じく、稲羽の素菟は、伊豆半島が南海上から北上し、今の位置にくっついた時の様子を表しています。淤岐の島は、隠岐の島ではなく、止まっているように見える島と言う意味で、ゆっくり北上していることです。
つまり、古事記の八俣の大蛇退治と稲羽の素菟は、本州の西日本と東日本(水蛭子)と伊豆半島が合体する様子を表していることです。
また、この混乱に乗じて、戦乱が起こったのも確かで、魏志倭人伝では、倭国大乱と表現しています。
結論は、古事記と魏志倭人伝の内容に間違いがないと考えます。
魏志倭人伝では、女王国の北(現在の地形では西)に向かった方向に順番に記載されています。
斯馬國は長野県の諏訪で、伊那國は長野県の伊那でしょう。残念ながら、已百支國は、この近くですが判りません。
以下、順に北(西)方向に国名を記載しています。
当然のごとく、遠くの国名は把握しきれていないため、省略されていて当然です。
最後の奴國(福岡県)は、東南至奴國百里の奴國と同じで、女王國の領地の最北端(最西端)の国で、帯方郡から奴國までの距離・萬二千餘里(一里50m)にほぼ合致します。
266年に臺與(壹與)が晋に遣使を出した後、413年まで晋に朝貢していないのは、内戦のせいばかりではなく、地殻変動による大地震が続発したのが、原因と考えるのが順当でしょう。
「奈良の古代文化」編集長 鶴井忠義
wanokuni@nifty.com
ただ個人的にはいつも気になるのは、東夷伝の冒頭に、「遠く離れた僻地のことは、度々何ヵ国語にも翻訳され、しかも時代を経て到達してきたものであり、実地踏査していないので良く分かりません」と編者の陳寿が明記していることです。
魏志倭人伝の中身を一語一句精査し、それをベースに邪馬台国の位置を推論しても無駄ではないかと思えてしまうのです。
別のアプローチもあってもよさそうに思うのですが。。。
倭という国?、連合体があったのは確かとして、多くの中国や朝鮮の文献から倭のエリアを特定し、その中心国を割り出していく、とかいった手法です。
信用されないと思いますが
私は本当に卑弥呼の生まれ変わりです
主人はその双子の弟の生まれ変わりで
背中にまりあとあざがあります
私は元々タイムトリッパーで
彼女の姿やその時の状況などを見ています
一つだけいえば
狗叉国は高知と熊本を地つなぎの時にあった所で
卑弥呼が死ぬ時に中国、四国に分かれたのです
又
幾内説の卑弥呼と倭人伝の卑弥呼は別人です
倭人伝のは九州の人で弟が2人
幾内の卑弥呼は兄が6人
同じ時代にいただけで同じシヤーマンでも別人です
参考になれば幸いです。
一番なやませるのは「水行10日陸行1月」ではないでしょうか。
邪馬台国の使者が「わが国は首都まで1月も要する大国であり、30国も従えている」嘘を言ったと思います。なぜなら魏と対等に近い立場の持っていくためです、豊臣秀吉の例からして、優れた権力者は、嘘やはったりのうまい人です。秀吉は「もうすぐ信長様が大軍を率いてやってくるぞ」と毛利軍を脅して降伏させ、後に家臣にしてますが、このとき信長は明智光秀に倒されてました。おそらく「ムー大陸」からきたと示唆した(バレてもいいよう固有名詞をださなかった)このように考えると正確な距離と方位をたどれば太平洋の真ん中にくるのもうなづけます。
邪馬台国はこのような「はったり」で周辺国を従わせたのでしょう。だから大国の待遇を受けれたと思います。だから途中まで距離が書かれているのが最後の方は所要日数になったのでしょう。
おそらく魏の使者や周辺国には「ここは前線基地で本国には何十倍もの軍隊がある」と脅したのでしょう。(うそか否か確かめることは当時の人は不可能なこと)。
また九州説にした理由は、推古天皇より前に女性天皇がいないからです。邪馬台国が大和朝廷の流れをくんでいれば、それ以前に女性天皇の記述があるはずです。そして「女性天皇」を認めない人も多いのは、邪馬台国は大和朝廷と無関係と多くの人が思っているからです。
結論 邪馬台国は九州にあった。あの記述は、魏と対等な立場にたち、周辺国を服属させるための「はったり」