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2027年02月01日

狗奴国との戦い〜卑弥呼の急死


魏略や魏志などの中国の史書によると、西暦247,248年くらいに、倭国では、倭の中央政権?である邪馬台国とそれに謀反を起こした狗奴国との間に戦いがあったとされ、その同時期か直後に、卑弥呼が死去したことが記載されている。
女王之南又有狗奴國 以男子爲王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也

女王の南、また狗奴國あり。 男子を以って王と爲す。 其の官を拘右智卑狗という。 女王に属さぬなり。
引用元:魏略(逸文4)翰苑卷三十
 其南有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。

 その南に狗奴国があり、男性を王と為し、官には狗古智卑狗があり、不属女王に従属していない。郡より女王国に至るには一万二千余里である。

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 其八年、太守王到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米為檄告之。

 その八年(247年)、(帯方郡)太守の王が(洛陽の)官府に到着した。 倭の女王「卑彌呼」と狗奴国の男王「卑彌弓呼」は元より不和。倭は載斯、烏越らを派遣して、(帯方)郡に詣でて攻防戦の状況を説明した。(帯方郡は)長城守備隊の曹掾史である張政らを派遣し、詔書、黄幢をもたらし、難升米に拝仮させ、檄文を為して、(戦いを止めるように)これを告諭した。

 卑彌呼以死、大作家、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與、年十三為王、國中遂定。政等以檄告壹與、壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還、因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。

 卑彌呼は既に死去しており、大きな墓を作る。直径は百余歩、殉葬する奴婢は百余人。更新して男の王を立てるが、国中が服さず、更に互いが誅殺しあい、当時は千余人を殺した。再び卑彌呼の宗女「壹與」を立てる。十三歳で王となると、国中が遂に鎮定した。張政らは檄文を以て壹與を告諭し、壹與は倭の大夫の率善中郎将「掖邪狗」ら二十人を遣わして張政らを送り届けたによって、臺(皇帝の居場所)に詣でて、男女の奴隷三十人を献上、白珠五千、孔青大句珠(孔の開いた大きな勾玉)二枚、異文雑錦二十匹を貢献した。
引用元:『三国志魏書』倭人伝


日本書紀では、崇神天皇10年に次のようなことが記載されている。
崇神天皇は、大彦命を北陸に、武渟川別を東海に、吉備津彦を西海に、丹波道主命を丹波に将軍として遣わし、従わないものを討伐させた。しかし、大彦命だけは異変を察知して引き返し、武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)の叛意を知る。武埴安彦は山背国(山城)から、その妻吾田媛は大坂から都を襲おうとした。崇神天皇は、倭迹迹日百襲媛の予言によって、武埴安彦らの叛意を察知し、五十狭芹彦命(吉備津彦命)の軍を大坂に送り、吾田媛勢を迎え撃つ。一方の安彦勢には、大彦命と彦国茸(ひこくにぶく、和珥氏の祖)を向かわせ、これを打ち破っている。その直後、倭迹迹日百襲媛は事故によって急死している。
《崇神天皇十年(癸巳前八八)九月壬子(廿七)》壬子。大彦命到於和珥坂上。時有少女、歌之曰。〈 一云。大彦命到山背平坂。時道側有童女、歌之曰。 〉 @瀰磨紀異利寐胡播揶。飫迺餓鳥〓[土+烏]。志斉務苔。農殊末句志羅珥。比売那素寐殊望。みまきいりびこはや おのがをを しせむと ぬすまくしらに ひめなそびすも (K018)〈 一云。於朋耆妬庸利。于介伽卑〓[氏+一]。許呂佐務苔。須羅句〓[土+烏]志羅珥。比売那素寐須望。おほきとよりうかかひて ころさむと すらくをしらに ひめなそびすも (K018a) 〉 於是大彦命異之。問童女曰。汝言何辞。対曰。勿言也。唯歌耳。乃重詠先歌、忽不見矣。大彦乃還而具以状奏。於是天皇姑倭迹迹日百襲姫命。聡明叡智。能識未然。乃知其歌怪。言于天皇。是武埴安彦将謀反之表者也。吾聞。武埴安彦之妻吾田媛。密来之取倭香山土。裹領巾頭。而祈曰。是倭国之物実。乃反之。〈 物実。此云望能志呂。 〉是以知有事焉。非早図必後之。 於是更留諸将軍而議之。未幾時。武埴安彦与妻吾田媛。謀反逆、興師忽至。各分道、而夫従山背。婦従大坂。共入、欲襲帝京。時天皇遣五十狭芹彦命。撃吾田媛之師。即遮於大坂、皆大破之。殺吾田媛悉斬其軍卒。復遣大彦与和珥臣遠祖彦国葺。向山背撃埴安彦。爰以忌瓮、鎮坐於和珥武〓坂上。則率精兵。進登那羅山而軍之。時官軍屯聚、而〓〓草木。因以号其山曰那羅山。〈 〓〓。此云布瀰那羅須。 〉更避那羅山。而進、到輪韓河。与埴安彦。挟河屯之。各相挑焉。故時人改号其河曰挑河。今謂泉河訛也。埴安彦望之、問彦国葺曰。何由矣、汝興師来耶。対曰。汝逆天無道。欲傾王室。故挙義兵、欲討汝逆。是天皇之命也。於是各争先射。武埴安彦先射彦国葺。不得中。後彦国葺射埴安彦。中胸而殺焉。其軍衆脅退。則追破於河北。而斬首過半。屍骨多溢。故号其処曰羽振苑。亦其卒怖走。屎漏于褌。乃脱甲而逃之。知不得免。叩頭曰、我君。故時人号其脱甲処曰伽和羅。褌屎処曰屎褌。今謂樟葉訛也。又号叩頭之処曰我君。〈 叩頭。此云迺務。 〉 是後。倭迹迹日百襲姫命為大物主神之妻。然其神常昼不見、而夜来矣。倭迹迹姫命語夫曰。君常昼不見者。分明不得視其尊顔。願暫留之。明旦仰欲覲美麗之威儀。大神対曰。言理灼然。吾明旦入汝櫛笥而居。願無驚吾形。爰倭迹迹姫命、心裏密異之。待明以見櫛笥。遂有美麗小蛇。其長大如衣紐。則驚之叫啼。時大神有恥。忽化人形。謂其妻曰。汝不忍令羞吾。吾還令羞汝。仍践大虚登于御諸山。爰倭迹迹姫命仰見而悔之急居。〈 急居。此云菟岐于。 〉則箸撞陰而薨。乃葬於大市。故時人号其墓。謂箸墓也。是墓者日也人作。夜也神作。故運大坂山石而造。則自山至于墓。人民相踵。以手遞伝而運焉。時人歌之曰。 @飫朋佐介珥。菟芸迺煩例屡。伊辞務邏〓[土+烏]。多誤辞珥固佐縻。固辞介〓[氏+一]務介茂。おほさかに つぎのぼれる いしむらを たごしにこさば こしかてむかも (K019) 《崇神天皇十年(癸巳前八八)十月乙卯朔》冬十月乙卯朔。詔群臣曰。今返者悉伏誅。畿内無事。唯海外荒俗。騒動未止。其四道将軍等今急発之。
引用元:日本書紀巻第五・崇神天皇



武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと) は、孝元天皇の皇子であり、彼が謀反を起こした相手の崇神天皇の叔父に当たり、倭迹迹日百襲媛命(やまとととびももひめのみこと)の甥にあたる人物である。彼はその出自からも分かるとおり、皇族の一族であり、自らが天皇になる野心があったのかもしれない。彼の生母は、埴安媛(はにやすひめ。河内青玉繋の女) であり、河内に関係の深い人物であって、実際に河内には彼の伝承が多く残っている。

邪馬台国の卑弥呼と戦った狗奴国の官には、魏志では狗古智卑狗(クコチヒク?)魏略では拘右智卑弥狗(コウチヒク)として登場し、どちらが誤写かは分からないが、これは畿内説だと、河内彦(かわちひこ)のことで、武埴安彦命と関係が深かったのでは?

この狗奴国には、男王として卑弥弓呼という人物が出てくるが、これは、卑弥弓呼(ヒミココ)ではなく、彦ミコ(ヒコミコ)の間違いで、彦命(ひこみこと)のことなのではないのか?だとしたら、狗奴国の男王・卑弥弓呼は、武埴安彦命のことなのかもしれない。

しかし、狗奴国というのは、河内国を連想させる国名ではない。 実は、この武埴安彦命は、外戚と関係が深い河内国だけではなく、山城国との関係が深いようである。いや、河内国はあくまでも、彼の外戚がらみの所領か、あるいは、彼の外戚の所領であり、彼の本拠地は山城国のほうだったのかもしれない。つまり、狗奴国を連想させる地名は山城国のほうに残っているのかもしれない。詳しくは、即下のリンク。

関連ページ:狗奴国は許乃國(山城の宇治)


魏志には、卑弥呼と狗奴国との戦いの前の約10年間、活発な対中国(魏)外交を行っており、日本書紀の崇神天皇の前半、開化天皇の後半と照らし合わせて読んでみると、何か発見できるかもしれない。
 景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。

 景初二年(238年)六月(通説では景初三年の誤記とする)、倭の女王が大夫の難升米らを派遣して帯方郡に詣で、天子(魏の皇帝)に詣でて朝献することを求めた。太守の劉夏は官吏を遣わし、送使を率いて京都に詣でる。

 其年十二月、詔書報倭女王曰:制詔親魏倭王卑彌呼。帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所獻男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻、是汝之忠孝、我甚哀汝。

 その年の十二月、詔書を以て倭の女王に報いて曰く「親魏倭王卑彌呼に制詔す。帯方太守の劉夏は使者を派遣し、汝の大夫の難升米、次使の都市牛利を送り、汝が献ずる男の奴隷四人、女の奴隷六人、班布二匹二丈を奉じて届けた。汝の存する場所は余りにも遠いが、遣使を以て貢献してきた、これは汝の忠孝であり、我は甚だ汝を哀れに思う。

 今以汝為親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授汝。其綏撫種人、勉為孝順。汝來使難升米、牛利渉遠、道路勤勞。今以難升米為率善中郎將、牛利為率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。

 今、汝を親魏倭王と為し、仮の金印紫綬を包装して帯方太守に付託し、汝に仮授せしむ。その種族の人々を鎮撫(鎮めなだめる)し、努めて孝順させよ。汝の使者の難升米、牛利は遠来し、道中の労に勤める。今、難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉と為し、銀印青綬を仮授し、引見して慰労を賜い、遣わして還す。

・・・・・・・・・

 正治元年、太守弓遵遣建中校尉梯雋等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金、帛、錦罽、刀、鏡、采物、倭王因使上表答謝恩詔。

 正治元年(240年)、帯方郡太守の弓遵は建中校尉の梯雋らを派遣し、詔書、印綬を奉じて倭国を訪れ、倭王に拝受させ、并わせて詔によって齎(もたら)された金、帛(しろぎぬ)、錦、毛織物、刀、鏡、采(色彩鮮やかな)物を賜り、倭王は使者に上表文を渡して、詔勅に対する謝恩の答礼を上表した。

 其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木弣(弣に改字)、短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。

 その四年(243年)、倭王は再び大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を遣使として奴隷、倭錦、絳青縑(深紅と青の色調の薄絹)、綿衣、帛布、丹、木弣(弓柄)、短い弓矢を献上した。掖邪狗らは一同に率善中郎将の印綬を拝受した。

 其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。

 その六年(245年)、詔を以て倭の難升米に黄幢(黄旗。高官の証)を賜り、帯方郡に付託して仮授せしめた。
引用元:『三国志魏書』倭人伝



これらの中国側の史書に出てくる国名や人名などは、日本の記紀のどれに当てはまるのか考えてみると新しい発見があるかもしれない。

邪馬台国の所在地(官名・人名などから推定)
邪馬台国の所在地の推定(諸国の国名から推定)


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posted by 邪馬台国総論 at 22:29 | TrackBack(0) | コンテンツ

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