魏志倭人伝には以下の戸数記述があります。
対海国 千戸余
一大国(一支国) 戸数三千許
末盧国 四千余戸
伊都国 千余戸 (魏略逸文では万余戸)
奴国 二万余戸
不弥国 千余戸
投馬国 五万余戸
邪馬壹国 七万余戸
一般的に、魏志倭人伝に出てくる国々の所在地としては
対海国=対馬
一大国=壱岐
末盧国=唐津市
伊都国=前原市
奴国=福岡市
までは殆ど確かだと言われている。
その場合、魏志倭人伝にある諸国の戸数が、邪馬台国の所在地を探る上での鍵になってくるのではないのか?
特に注目されるのは、二万余戸の奴国であり、この国は後の筑後国に中心部の博多沿岸部に当てはめられると思う。
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(単位は万石) |
西暦3世紀の一戸あたりの家族数は分からないが、仮に5人くらいとした場合、奴国の二万余戸というのは、人口だと約10万人程度となる。
西暦3世紀の日本の人口は、どの程度なのか分からないが、西暦16世紀の日本より少ないのは確か。ただ、どの程度、少ないのかは分からない。
最近、日本の農耕社会の始まりは紀元前10世紀に遡れるということが分かってきて、それを考慮すれば、農耕社会の進歩の遅さから考えて、西暦3世紀と西暦16世紀の人口差が10倍以上も離れているようなことは無いだろう。離れていても、2〜4倍程度じゃないのか?
西暦1598年の日本の各地の石高から考察して、西暦3世紀の日本の各地にどれくらいの戸数の国が誕生しえるのか、ある程度、推定は可能なように思える。
だとしたら、奴国の人口は十数万人ということになり、西暦16世紀の検地当時の人口の2,3分の一程度だと思われる。
魏志倭人伝には、奴国の後に、戸数まで記してある国として、不弥国、投馬国、邪馬壹国がある。
このうち、最初の不弥国は、千余戸という少数の人口の国で、到着までの行程が里数で記してあり、しかも、奴国から百里程度の近さということから、奴国に近接する小さな領域の国だと分かる。
しかし、その次の投馬国、邪馬壹国は、到着までの距離が里数ではなく、水行何日・陸行何月というように日数でかなりの距離があり、しかも、戸数が五万余戸、七万余戸というかなりの数であるから、おのずと推定地も限定されてくる。
奴国が現在の福岡市付近で戸数が二万余戸とした場合、投馬国や邪馬壹国を九州の中に納まらせるのは限界のような気がする。
九州説で注目されるのは、邪馬壹国の南で女王国に反抗する狗奴(くな)国の存在である。この狗奴国では、官が狗古智卑狗であり、菊池彦と読めるのではという説から、狗奴国の所在地は、現在の熊本県ではないのか?と推定する向きが強い。
しかし、それだと、奴国(福岡市)と狗奴国(熊本)の間に、5万余戸の投馬国と7万余戸の邪馬壹国が存在したということになり、それは無理があるのではと思われる。
また、投馬国、邪馬壹国までの行程の書き方から、この2カ国については、帯方郡からの距離をそれぞれ書いてあるのではという説から、宮崎県を投馬国という推定する説もあるが、西暦16世紀ですら石高が10数万石しかない宮崎に、5万余戸の投馬国は、収まりきらないように思われる。
このようなことから、人口・戸数で考えた場合、投馬国は中国地方のどこか、邪馬壹国は畿内にあったと考えるほうが自然のような気がするのだが、どうだろうか?
邪馬台国九州説の検証
歴史年表地図・邪馬台国所在地推定地図